オフトジャパンの成長
結果をようやく把握できたとき、時計の針は午前1時半を回っていた。延長戦でも1点ずつ取り合った末にもつれ込んだPK戦を、4-2で制したのはオフトジャパン。戦後に行われた国際大会で日本代表が初優勝をもぎ取った記念すべき瞬間だったが、チャイムは鳴らなかったと記憶している。
東アジア地域のレベルアップを目的として、ダイナスティカップが創設されたのは平成2年7月。北京で行われた第1回大会に臨んだ、横山謙三監督に率いられた日本代表は中国、韓国、北朝鮮の各代表に3連敗を喫して最下位に終わっている。1点も奪えない、文字通りの惨敗だった。
しかし、2年の歳月をへた日本代表は史上初の外国人指揮官、オフト監督のもとで大きく変貌を遂げつつあった。初陣となった平成4年5月のキリンカップではアルゼンチン、ウェールズ両代表にともに0-1で敗れたものの、7月から行われたオランダ遠征でチームの輪郭が形を成してくる。
かつてマツダ(現サンフレッチェ広島)を率いていた縁で、日本サッカー協会(JFA)から白羽の矢を立てられたオフト監督は、キャッチーな言葉を介して戦術を浸透させていった。アイコンタクト、スリーライン、トライアングルといった言葉は、シンプルゆえに説得力に満ちていた。
オフトジャパンの成長の跡は8月中旬に2試合が組まれた、セリエAの名門ユベントスとの国際親善試合で国内のファンに披露される。ともにゴールを奪い合った末に引き分けたなかで、神戸ユニバーシアード記念陸上競技場で行われた第1戦は、日本代表のエースを覚醒させるきっかけになった。
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