Jリーグ開幕前年
待てど暮らせど、中国・北京発の一報が入って来ない。平成4(1992)年8月。当時勤務していたスポーツ紙の編集局で、オランダ人のハンス・オフト監督に率いられる日本代表が臨んでいた、ダイナスティカップ1992決勝の結果を待っているうちに日付は29日から30日に変わっていた。
おりしもバルセロナ夏季五輪が閉幕した直後。取材団を送り込んでいた関係で会社全体として予算が逼迫していたため、北京で開催されたダイナスティカップへの担当記者派遣は見送られた。Jリーグが産声をあげる前年における、サッカーが置かれたステータスの低さを物語っている。
同業他社も同じような状況に置かれていて、北京へ向かったメディアは5社前後だった。残る社はテレビやラジオを含めたメディアへ向けて、さまざまなジャンルのニュースを配信する共同通信や時事通信の記事が頼りになる。筆者が所属していたスポーツ紙は共同通信に加盟していた。
共同通信に加盟しているメディアには、専用のホットラインが設置されている。まもなく配信されるニュースの概要がスピーカー越しにアナウンスされ、共同通信の特ダネやビッグニュースの場合は大音量のチャイムがまず鳴り響く。そのたびに編集局内に緊張感が走ったことを思い出す。
しかし、韓国代表とのダイナスティカップ決勝に関しては、1-1のまま延長戦に入った直後から共同通信のアナウンスが途切れた。インターネットが生み出される前であり、さらにはテレビの中継もなかった。舞台となった北京工人体育場で何が起こっているのか、さっぱりわからない。