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日本代表 5年前

本田圭佑が感じた「煽ってきた責任」の重さ。「自分たちのスタイル」が結果を残せなかった理由とは?【日本代表平成の激闘史(11)】

シリーズ:日本代表平成の激闘史 text by 元川悦子 photo by Getty Images

早すぎた成功の代償

 しかしながら、早すぎる成功がザックの選手起用を硬直化させてしまう。ここからブラジル切符を手にした最終予選・オーストラリア戦までの約2年半、指揮官はほぼ主力を固定。「メンバー表が配られなくてもスタメンが分かる」と報道陣に揶揄されるような状況が続いた。

 もちろん平成24(2012)年ロンドン五輪世代の清武弘嗣や酒井高徳らはしばしば起用されるケースがあったが、核となる陣容は一緒。それだけ指揮官は自信を持っていたのだろう。

 だが、そのメンバーで挑んだ平成25(2013)年のコンフェデレーションズカップで3戦全敗の屈辱を味わうと、突如として新戦力探しをスタート。同年8月の東アジア選手権で活躍した柿谷曜一朗や山口蛍、森重真人、青山敏弘らを大量抜擢し、急ピッチで融合させることになる。

 そんな矢先の10月の欧州遠征で連敗すると、今度は「ボールを保持し、主導権を握って攻める」というスタイルを問い直すことになってしまう。内田のように「勝つためには形は関係ない」と考える者がいる一方で、本田や遠藤保仁のように自分流に固執する人間もいて、チームが混迷を深めていった。

 それでも、11月のオランダ・ベルギーとの連戦に善戦したことで、チームは浮上のきっかけをつかんだかと思われた。ワールドカップイヤー突入後もニュージーランドやキプロス、コスタリカ、ザンビアに4連勝し、指揮官も前向きになっていた。

 この年に入ってから長期離脱を余儀なくされた長谷部と内田がギリギリ間に合い、大久保嘉人というラストピースを加えたことも、楽観ムードを後押しした部分があっただろう。

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