期待された8強入り
伏兵・トルコに敗れ、ベスト16止まりに終わった平成14(2002)年日韓ワールドカップの日本代表。しかし、当時25歳の中田英寿や22歳の小野伸二や稲本潤一、中田浩二ら20代前半の選手たちがメンバーの多数を占めていたため、次のドイツ大会の8強入りが大いに期待された。
さらなる高みを目指す日本サッカー協会は、日韓大会で成功を収めたセネガルのブルーノ・メツ監督、あるいは4年前のフランス大会で母国を優勝へと導いたエメ・ジャケ監督らの次期監督招聘を目論んだが、交渉は難航。川淵三郎会長の「ジーコには聞いたの?」の一声で、ジーコに落ち着いた経緯がある。
ブラジル代表で黄金の中盤を形成し、常勝軍団・鹿島アントラーズの基盤を作った彼の日本サッカーへの貢献度は、疑う余地がなかった。ただ、この時点ではプロチームの監督を務めた経験がなかった。そこを疑問視する声はほとんどなかったが、時間を追うごとに懸念が広がっていく。
アジア予選では体調が万全でない柳沢敦や中村俊輔ら欧州組を優先して起用したり、ケガで長期離脱していた中田英寿の復帰と同時にシステム変更に踏み切って失敗。代表合宿中の練習も戦術的要素が少なく、シュートやミニゲーム、高校生との練習試合が中心で、選手からも不安の声がたびたび聞こえてきた。
こうした中、チームは紆余曲折を強いられたが、何とか本大会切符を獲得し、平成18(2006)年5月にはメンバー23人が決定。福島・Jヴィレッジで1次合宿をスタートさせた。