タレントの宝庫だった日本代表
ナイジェリアで行われた平成11(1999)年のワールドユース準優勝という快挙を達成した日本サッカー界にとって、次なるターゲットは平成12(2000)年シドニー五輪でのメダル獲得だった。
平成10(1998)年10月に来日したフランス人のフィリップ・トルシエ監督は、A代表と五輪代表、ユース代表の3世代のチームを指揮。若年層からの底上げを着々と図って、平成14(2002)年日韓ワールドカップでの成功につなげようとしていた。
ナイジェリアに続いてシドニーでもメダルを獲得できれば、日韓で世界を驚かせる可能性は一気に上がる。それを現実にするためにも、シドニー五輪は重要な大会と位置付けられた。
予選は平成11(1999)年6月からスタートしたが、当時は「アジアの3枠を全て取れる」と評されるほど日本の若手はタレントの宝庫だった。黄金世代には18歳でフランスワールドカップに参戦した小野伸二、ナイジェリアでベストイレブン入りした本山雅志らがおり、彼らより1世代上のユース代表だった宮本恒靖、柳沢敦、中村俊輔らも計算できる存在。トルシエも「よりどりみどり」の状況だったと言っていい。
結局、平成12(2000)年9月の本大会メンバーはU-23世代の15人に、オーバーエージ枠として三浦淳宏、楢崎正剛、森岡隆三の3人が加わる陣容となった。とりわけ、中盤は大激戦で、大けがから回復途上だった小野、黄金世代の小笠原満男、遠藤保仁も落選。中田英寿を軸に中村俊輔や本山を組み合わせる構成で挑むことになった。