躍進に湧く日本サッカー界
平成4年(1992年)8月のダイナスティカップ(中国)と11月のアジアカップ(広島)で、日本代表はともに優勝。そして翌年5月にはJリーグ開幕と、当時の日本サッカー界は急激な躍進に湧いていた。
それまで異次元の存在だったワールドカップ出場が現実味を帯びてきたのもこの頃。ハンス・オフト監督率いる日本代表は平成5年(1993年)4~5月にかけて行われた米国ワールドカップアジア1次予選を順当に1位通過。10月にカタール・ドーハでセントラル開催される最終予選を控えていた。
ところが、絶対的左サイドバックの都並敏史が7月に左足首を骨折。代役探しが非常に難航した。9月のスペイン遠征や10月のアジア・アフリカサッカー選手権・コートジボワール戦で勝矢寿延や江尻篤彦、三浦泰年らをテストし、不安を抱えながら本番に向かった。
初戦・サウジアラビア戦と第2戦・イラン戦で先発した三浦のところを徹底的に突かれ、都並不在の穴を露呈。サウジには0-0で引き分けたが、イランに1-2で敗れるといういきなりの苦境に追い込まれてしまう。
そこでオフトは左サイドバックを勝矢にスイッチ。攻撃参加を捨てて、守りをガッチリと固める策を講じた。それが奏功し、日本は第3戦・北朝鮮戦を3-0で勝利。息を吹き返す。
そして第4戦では永遠の宿敵・韓国をエース・カズ(三浦知良)の決勝弾で1-0で撃破。この時点で6チーム中首位に立った日本は、引き分けでも2位以内に入ってアメリカ行きの切符を手にできるところまで来た。