時代の流れには逆らえず
翌シーズンに就任したチェーザレ・プランデッリ監督も中田をトップ下として使わらず、さらには組織のバランスを取るため、右サイドで上下動をさせるという役割も命じた。その結果2002/03シーズンは31試合に出場し4ゴールと戦績自体は上向くのだが、戦術の志向が違った中田との間には確執が生じてしまう。
2003/04シーズンはマルコ・マルキオンニに右サイドの定位置も奪われ、シーズン途中でボローニャへのレンタル移籍を余儀なくされた。
ボローニャでは、ペルージャ時代の3人目の監督であるカルロ・マッツォーネ監督との再会を果たし、再び出場機会は得ることには成功する。だが2004/05シーズンに移籍したフィオレンティーナでは、不調に喘ぐチーム共々に失敗。終盤は出場機会を得ることなく、これがイタリアでのラストシーズンとなった。
戦術の潮流は少しずつ、典型的なトップ下の選手には厳しいものとなった。全員攻撃全員守備が主流となり、DF前のスペースを消す守備はさらにタイトなものとなった。従ってトップ下には、無駄にボールを触って手数を増やさないことに加え、マークを引き剥がす技術とフィジカルも求められるようになった。さもなければ、プレッシャーの薄いサイドなどに回されるのだ。
もっとも中田自身もポジションの変化を受け入れ、代表でもボランチとしてプレーをすることになる。リーグの場でもどう老成するかを見たかったのだが、ドイツW杯後30歳になる前に引退を決意。時代の潮流はまたさらに変わり、イタリアにもポゼッションを志向するチームが現れた。
もし中田がイタリアに再び活路を求め、インサイドMFとして選手を続けていたら、どう絡んだのだろうかとつい想像してしまう。サッカーファンの一人としては偽らざる感情である。
(取材・文:神尾光臣【イタリア】)
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