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セリエA 6年前

98年、中田英寿。激動の時代、ナカタはなぜ至高の活躍を見せ急速に引退へと向かったのか【セリエA日本人選手の記憶(2)】

シリーズ:セリエA日本人選手の記憶 text by 神尾光臣 photo by Getty Images

ローマへの移籍。しかし待っていたのは…

中田英寿
イタリアの名門・ローマへ移籍を果たしたのは2000年のこと。しかしチームにはトッティという強力なライバルがいた【写真:Getty Images】

 トップ下の位置に座し、組織上の制約はあまり与えず、2列目から飛び出してゴールへと向かう。攻めてきた相手が開けた後方のスペースを活用し、カウンターを構築して攻め上がる。シンプルにパスを回した後で足を止めずに走り、前線のスペースに飛び出してゴールを陥れる。中田の活躍とともに、チームは残留を果たした。

 ジネディーヌ・ジダンにマヌエル・ルイ・コスタなど、当時はトップ下の選手が特に注目されていた。洗練する一方の組織守備に対し、FWの下で自由に動いてチャンスメイクをするタレントの配置が流行となっていたからだ。そのおりにあって出現した中田の市場価値は、一気に上昇する。この高評価と成功体験は、色々な意味で彼のキャリアを左右することとなった。

 00年1月、約2000万ドルというペルージャにとって断り切れない額のオファーがローマから届き、移籍が成立した。トップ下の選手を配置する戦術で戦っていたチームだが、ここにはフランチェスコ・トッティという絶対的な存在がいた。

 下部組織生え抜きの主将で、技術もフィジカルもシュート力も傑出している化け物だ。そこへ中田が加入することは必然的に彼とのポジション争いになるか、他のポジションへのコンバートを意味することになる。ファビオ・カペッロ監督が構想していたのは後者。運動量と戦術上の規律の高さを買って、1列下のボランチへの転向を画策していた。

 しかしこの時は、順応がうまくいかなかった。DFから前線までのスペースを埋め、厳しいチャージでボールを奪うことも求められ、守備の際には中盤でラインを作らなければならない。トップ下として前方で相手を捕まえる守備は上手かった中田だが、人もボールも追いかけ回すタスクまでにはさすがに順応しきれない。結果、中盤でのプレー強度は下がる、カペッロも起用プランを諦めた。

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