粘り強く植えつけた概念
例えば、サッカーにおいて“正しい判断”とは相手から決まります。判断は基本的に相手を見て決められていくものなのです。だから、私はよく「(判断の)答えは相手が教えてくれる」と伝えていました。
しかし、彼らはそれよりも「こういう場合はチームとしてこうしよう」とあらかじめ自分たちの“正しい判断”を決めて、それをみんなで一生懸命にやる。それが「自分たちのサッカー」だと思っているようでした。
しかし、相手がいるサッカーにおいて、それでは不十分です。試合ではいろいろなことが起こり、想定と異なることなどいくらでも出てきます。相手だって毎回変わるのです。
その中で、いつも「自分たちのサッカー」をするためには「自分たちのサッカー」に相手を含めておかなければなりません。
「おれたちはスペースに蹴って走ろう」ではなく「“相手”が出てきたら裏へ流しこもう」とか「“相手”が出てこなくても一度裏へ流し込んで試合の流れを掴もう」でなくてはなりません。
「このエリアを攻めよう」ではなく「“相手”がこう動いたらここが空くからこのエリアを攻めよう」でなくてはなりません。
それが「自分たちのサッカー」でなければ、あらゆる相手に通用する「自分たちのサッカー」にはなり得ず、“良い時はいいけどダメな時はダメ”になってしまいます。
だから、私は指導者として「相手を見てサッカーをする」という概念を植え付けることからスタートしました。それを練習の中で具体的に説明しながら、粘り強く、彼らの“自分たちのサッカー”の考え方を変えていこうとしたのです。
それを彼らは皆「面白かった」「知的だった」と表現してくれました。つまり、これまでに考えてきたサッカーと違っていたのだと思います。だとすれば、私の考えていたことはあながち間違いではなかったのでしょう。
「マリーシア」とは「相手を見てサッカーをする」ということ
私には、サッカーは“相手”とするものだという考え方が当たり前にありますが、果たして“日本サッカーの当たり前”はどうでしょうか。
本書では、サッカーにおける「相手を見てサッカーをする」という部分を深く考察してみます。私にとって「自分たちのサッカー」には常に相手がいました。「取るべきポジション」には相手がいました。
「自分たちのサッカー」とはきっと、試合におけるできるだけ多くの“相手”に対応できる自分たちのセオリーのようなもので、それは確かに“自分たちがやるべきこと”です。
ここで大事なことは、「自分たちのサッカー」を構築する判断基準の中に「相手」が存在していることを意識しておくことだと思います。つまり、“相手を見てサッカーをする”ことがどういうことなのかを知り、“相手を見てサッカーをする”ことを「自分たちのサッカー」に含んでおくということです。
そうすれば、相手がいるサッカーというスポーツにおいて、相手が存在しなくなることなどないはずです。
日本人は元々「マリーシア」とか「駆け引き」という言葉に抵抗があります。「ズル賢い」という拡大解釈がそうさせたのでしょう。もったいないと思います。
私はサッカーにおける「マリーシア」は「相手を見てサッカーをする」ということだと理解しています。「サッカーがうまい」というのも、もしかすると同義かもしれません。
「相手を見てサッカーをする」ことがどういうことなのか。これを噛み砕いて説明できれば、それを実行する力は日本人にもあると思います。日本人は示されたものをすることは得意なのですから。
だからきっと「相手を見てサッカーをする」を噛み砕くことは日本サッカーのためになる。そう信じ、この難題に挑んでみます。
(文:岩政大樹)
【了】