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あるサッカー選手が“死”に直面した3ヶ月。幸せの絶頂から奈落の底へ…国際世論をも動かした大事件とは

text by 植松久隆 photo by Getty Images

態度を変えなかったタイ。深刻な人権侵害だが…

ハキーム・アル・アライビ
空港で帰還したハキーム・アル・アライビを迎える支援者たち。「#SaveHakeem」のハッシュタグは豪州国内外に広まった【写真:Getty Images】

 2010年から2012年にかけて、中東地域で勃発した“アラブの春”と呼ばれた一連の大規模デモを主とした民主化運動。その流れは島国バーレーンにも波及し、騒乱がピークに達したのが2011年2月頃だった。そこではスンニ派のハリファ王家の独裁や政府の汚職に対し、業を煮やした国民の7割を超す多数派のシーア派市民による様々な反政府活動が起きた。

 アル・アライビの兄は、その騒乱の前からシーア派の活動家として当局にマークされる存在で、監視の目は弟であるハキームにも注がれ、12年11月の彼自身の19歳の誕生日に追及の手が及ぶ。先に逮捕され拷問で自供を強要された兄の証言に基づき、火炎瓶を用いての警察署襲撃事件の犯人として突如拘引された。

 その嫌疑を掛けられた事件発生時、テレビで全国中継されていた試合で国内クラブのアル・シャバブの一員としてプレーしていたという動かしようのないアリバイがありながらの逮捕は、明らかに不当なものだった。

 やがて何とか釈放されたアル・アライビだが、その後も身辺の安全が脅かされる状況が続き、ついに“亡命”を決意すると、バーレーン代表に選出されて遠征した先のカタールで計画を実行。シーア派国家であるイランに亡命を申請した。ちなみに亡命後、警察署襲撃の主導者として欠席裁判によりバーレーンで禁固10年の刑を言い渡されている彼には、帰国すれば当然投獄の運命が待ち構えている。

 その後、2014年に彼の受け入れを決めた豪州に渡り、2016年には正式な「政治難民」の認定を受けてビクトリア州メルボルン郊外で新たな人生をスタートさせていた。そして今回、若い頃からの恋人と結婚。幸せの絶頂で訪れたハネムーン先で絶望の底へと突き落とされたのだった。

 事件発生後、12月に入ってインターポールも遅ればせながら国際手配を取り下げ、豪州政府もあらゆるチャンネルでタイ当局に働きかけてきたものの、タイ側はアル・アライビの身柄拘束を続け、バーレーンに送還する可能性を示唆し続けた。1月末には「審問での反証を準備するための時間を与える」と60日の拘留期間延長を決めるなど、事態はさらに長期化していく。

 審問の結果いかんで、タイがアル・アライビの強制送還に踏み切れば、バーレーンで過酷な拷問に晒されかねない状況に、国際世論もタイ当局への非難の声を強めていった。豪州国内でPFAが始めた草の根の働きかけは、「#SaveHakeem」のハッシュタグと共に国内のフットボール関係者から広く伝播、豪州政府をも動かした。豪州のスコット・モリソン首相はすでにタイ首相宛に2度の書簡を送り、当局の翻意を強く促した。

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