東京五輪をゴールではなくスタートに
賀川が改めて東京五輪を総括する。
「とにかく50万人近い人たちが、生でサッカーを観戦した。この事実が大きい。またアルゼンチン戦の勝利が値千金だった。五輪が始まっても、大阪の新聞はプロ野球の日本シリーズ、阪神-南海の記事を大きく扱っていました。
『報知新聞』は、ガーナ戦に巨人の王、長嶋を招待して観戦記を載せていた。そんな時代でした。東京五輪でサッカー以外の競技は、潤沢な強化費を使って結果を追求して終わりでした。でもサッカーは違った。五輪後にマイナー競技から脱却するために、みんなが知恵を出し合ったんです」
全ての競技が、東京五輪というゴールを目指して突っ走った。だがサッカーだけは、そこをスタートラインとして、未来へと走り始めたのだ。賀川が続ける
「少年サッカースクールを全国に広げ、やがて指導者成コースも起ち上げた。五輪翌年に、クラマーの提言で日本リーグが始まると、バレー、バスケット、アイスホッケーなどが続いていきました」
少年たちへの普及、指導者の養成、そして頂点の強化。もちろん紆余曲折はあったが、こうした基盤ができたからこそ今日がある。
片山は、東京五輪が終わったら、現役を退き社業に専念するつもりだった。
「でも実際に五輪に出てみて、すぐに気持ちが切り替わりました。こんなに素晴らしいものだったのか。だったら次も絶対に出たいと」
5、6位決定戦を終えて帰京した若い日本代表は、そのまま選手村に戻ると、翌日から次の五輪を目指してトレーニングを始めた。
そして4年後メキシコの地でクラマーの描いたベスト4のもくろみは、銅メダルという形で実現した。
(文:加部究)
▽ 加部 究
スポーツライター。1958年、前橋市にうまれる。立教大学法学部卒業。高校1年のとき“空飛ぶオランダ人”の異名をとるヨハン・クライフの映像に遭遇。衝撃が尾を引き、本場への観戦旅を繰り返すようになる。1986年、メキシコ・ワールドカップを取材するためスポーツニッポン新聞社を在籍3年目に依願退職。以来、ワールドカップ7度、10度以上の欧州カップ・ファイナル及び4つの大陸選手権等の取材をこなしながら『サッカーダイジェスト』、『エル・ゴラッソ』、『サッカー批評』、『フットボール批評』など数多くの媒体とかかわる。代表作に、『祝祭―Road to France』、『真空飛び膝蹴りの真実“キックの鬼”沢村忠伝説』、『サッカー移民』『大和魂のモダンサッカー』、『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』、『サッカー通訳戦記』ほか。
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