5、6位決定戦を大阪で開催した理由とは?
実は八重樫は、この頃クラマーから、自身の古巣ドルトムントへの移籍を仄めかされていたそうで、もし実現していれば香川真司は同クラブで2人目の日本人になっていた。
日本代表は、この後大阪へ移動し、ユーゴスラビア(当時)と5、6位決定戦に臨んだ。イビツァ・オシムに2ゴールを許した日本は、ようやく未完の大器・釜本がヘディングシュートを決めるが、1-6で大敗した。
オシムをマークした鈴木が懐かしむ。
「密着すると向こう側が見えない。大きいのにテクニシャンで、もっと動きが鈍いのかと思ったら、 結構スピードもあり細かいステップが出来る選手でしたね」
ところで、この5、6位決定戦の大阪開催を提案したのが、賀川だった。
「五輪というチャンスを活かして、なんとかサッカーを盛んにしたかった。そこでFIFAに頼んで認めてもらい、東京五輪の順位決定戦として開催に漕ぎ着けたんです。舞台となった長居陸上競技場は、五輪を終えた後に陸上競技のスター選手を集めて国際競技会を開くために作ったのですが、サッカーで使用する先佃をつけたので、翌年から始まる日本リーグでも、ヤンマーの主催試合などで使えるようになったわけです」
まだサッカーは、物珍しい競技だった。それでも世紀の祭典の一角で61万枚以上のチケットが売れた。イタリアと北朝鮮が出場を辞退したために、ホスト国日本の試合も含めて計6試合分が払い戻しとなったが、そうでなければ全競技を通じて最大の観客動員を記録したはずだった。
賀川が面白いエピソードを教えてくれた。過去に日本代表監督と選手を兼任した二宮洋一は、大会期間中必ずバックスタンドに陣取り、敢えて声高に解説紛いの会話を続けた。気がつけば、周りに人が集まり耳を傾けていたそうである。
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