クラマーの指導は着実に実を結ぶ
ところが2年後、ローマ五輪予選で敗退したのを機に日本代表が再編成されることになり、素材発掘のために全国から100人前後の選手たちが招集される。片山は、当時としては珍しく小学生時代からボールを蹴り始め、テクニカルなドリブルを駆使した攻撃参加が異彩を放っていた。
「周りは憧れの選手ばかり。若かったし夢中でした。それでも思い切りやれたかな、という印象は残りました」
終わってみれば、しっかりと欧州遠征メンバーに残り、日本代表の一員としてクラマーと初めて顔を合わせるのだった。
さらに横山謙三は、川口高校3年生でMFからGKに転向している。経歴は浅かったが、機敏な動きと際立ったジャンプ力が岡野の目に留まり、東京五輪本番では21歳の若さで日本代表のゴールマウスに立つことになる。
生まれ変わった日本代表は、毎年夏には長期の欧州遠征に出かけ、クラマーの指導を受けながら経験を重ねた。若い選手たちの成長は早かった。当時『産経新聞』の記者だった賀川が最初に手応えを感じたのは、1962年末に東京・後楽園競輪場で行われた三国対抗でのプレーを見た時だった。
「スウェーデン選抜と、ディナモ・モスクワを招き、初めて外国チーム同士の試合も行われました。スタンドは超満員(約1万2?3000人)でしたね。日本はスウェーデンには1-5で敗れましたが、ディナモには2-3と粘って食い下がりました。クラマーは徹底して基本技術を高めていきましたが、ようやくそれが試合で使えるようになったと感じました」
(文:加部究)
▽加部究
スポーツライター。1958年、前橋市にうまれる。立教大学法学部卒業。高校1年のとき“空飛ぶオランダ人”の異名をとるヨハン・クライフの映像に遭遇。衝撃が尾を引き、本場への観戦旅を繰り返すようになる。1986年、メキシコ・ワールドカップを取材するためスポーツニッポン新聞社を在籍3年目に依願退職。以来、ワールドカップ7度、10度以上の欧州カップ・ファイナル及び4つの大陸選手権等の取材をこなしながら『サッカーダイジェスト』、『エル・ゴラッソ』、『サッカー批評』、『フットボール批評』など数多くの媒体とかかわる。代表作に、『祝祭―Road to France』、『真空飛び膝蹴りの真実“キックの鬼”沢村忠伝説』、『サッカー移民』『大和魂のモダンサッカー』、『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』、『サッカー通訳戦記』ほか。
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