1959年、高校生が海外遠征に
クラマーは西ドイツユース代表監督として、フランツ・ベッケンバウアーらを育て、1966年イングランド・ワールドカップでは西ドイツ代表(準優勝)のベンチに入り、さらに1975年にはバイエルンを率いて欧州制覇を成し遂げている。母国でも高く評価され、将来の代表監督候補として嘱望されるほどの逸材だった。
日本代表は1960年夏に欧州遠征に出かけて初めてクラマーと顔を合わせるが、今度は10月にクラマーが来日して40日間滞在する。さらに翌春には1年近く留まり、日本代表の強化だけではなく、全国各地を行脚して指導、普及に努めるのだった。
「クラマーは、まず岡野をドイツに呼び寄せ、指導者養成コースを受講させた。そして次は長沼でした。こうして下準備をした上で、若い2人に日本代表を託すように進言したわけです」
日本代表監督の長沼が30歳、コーチの岡野が29歳、指導スタッフが一気に若返り、同時に選手の新陳代謝も大胆に進められていった。再び賀川が述懐する。
「1959年に第1回のアジアユース選手権が行われ、日本は高校選抜を送ることになり、私も同行しました。当時高校生が海外遠征に出る競技など他にはなかったから、物凄く刺激になりました」
帰国した賀川は、往年の名FW川本泰三に聞かれた。
「何人おる?」
「まあ、3人はおりますかな…」
「1チームに3人もおれば大収穫だ」
川本は、5年後の東京五輪の戦力になりそうな素材が何人いるかを尋ねたのだ。賀川が頭に浮かべたのは、杉山隆一、宮本輝紀、継谷昌三で、実際に三人とも五輪本番ではフル代表の中核に成長を遂げている。
また右SBとして 24歳で東京五輪に出場する片山洋は、1940年に生まれた。それはもし日中戦争が勃発しなければ、 東京五輪が開催されていたはずの年だった。
「そう思うと感慨深いですよね。五輪は小さいころからの夢でした。でも東京に開催が決まった時は慶應義塾大学の1年生。全国高校選手権にも出たことがないし、遥か彼方の大会としか思っていなかった」