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日本代表 6年前

権田修一が追い続けた川口能活の背中。日本代表としての責任胸に、作る独自のGK像

text by 藤江直人 photo by Getty Images

「小さなころから憧れていた選手だった」

 川口と初めて対面した記憶をたどっていけば、小学校4年生だった権田が、神奈川・川崎市内で活動するさぎぬまSCに所属していた1997年に行き着く。清水商業高校から横浜マリノスに加入して4年目の川口は、サッカー王国ブラジルを撃破した1996年のアトランタ五輪をへて、悲願のワールドカップ初出場を目指す日本代表のゴールマウスを守っていた。

「マリノスカップという大会で、能活さんがプレゼンターを務めていたんですよ。思わず『やばい、川口選手だ』と言っちゃうほどのレベルで、小さなころから憧れていた選手だったので。能活さんに憧れて低いパントキックを蹴るようになったとか、ボールに飛び込むようになった選手が、僕を含めてけっこう多いと思うんですよね。僕自身は神奈川県のチームに所属していたので、よりマリノスは身近な存在でしたので、マリノスの試合もよく見にいきました」

 もちろん、川口自身の記憶にはないひとコマとなる。それでも、川口の眩しい背中は小学生の段階でゴールキーパーとして川崎市選抜、そして神奈川県選抜に名前を連ね、中学校進学と同時にFC東京U―15に加入。将来のプロを志して心技体を磨いていく権田の羅針盤となってきた。

 だからこそ、はるか前方を走り続ける川口の軌跡を常に注視してきた。ワールドカップにおける活躍だけではない。ゴールキーパーとして初めて海外へ活躍の場を求めたパイオニアであり、イングランド2部のポーツマスからデンマークのノアシェランをへて、2005年にジュビロ磐田で国内に復帰。2014年からJ2のFC岐阜へ、2016年からはJ3のSC相模原へ新天地を求めた。

 特に2008年の創立と歴史も浅く、クラブの規模や設備もマリノスやジュビロとは大きく劣る相模原の一員として、創設されて間もないJ3の舞台で戦う川口の姿は、さまざまな意味で周囲を驚かせた。権田もその一人となるが、もちろんそこにはポジティブな意味が込められている。

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