僕が追い求めるのは一期一会ならぬ「一期一真剣」
もちろん、選手たちとの信頼関係が築かれていることが大前提となる。そのうえで選手をその場で納得させられる100%の自信があれば、どのようなTPOでも言っていいと思うようになった。感情と思考が重なって、100%になることが理想と言えばわかりやすいだろうか。
頭のなかでそれこそ何周も考えを巡らせたすえにたどり着いた、自分なりの結論だと思ってもいる。対照的に1%でも言わないほうがいいと思っている自分がいれば、選手を叱ってはいけない。選択したことを咎めてもいけない。監督という立場で言えば、一度口にした言葉を引っ込めることはできないからだ。
映像を見直したうえで「お前の言うこともわかる」と話すのはギリギリでOKかもしれないけれども、何の根拠もなく「あのときは興奮していて悪かった」と前言を撤回するのは許されない。選手は「いったい何なんだ、この人は」と思うはずだし、その瞬間に信頼関係は崩壊する。
指導者の道を歩み始めて以来、組織を動かすうえで、それだけ言葉は大事だと思ってきた。言葉は語彙力ではなく心で伝える、とよく言われる。どんなに素晴らしい言葉でもそれが借りものであるとか、口にする側が心を震わせて伝えなければ、言葉に力が宿ることはない。この章の冒頭で記した、僕が追い求める一期一会ならぬ「一期一真剣」となる雰囲気も作り出せない。
選手は監督の言うことを聞くものだ、という上から目線的な感覚を一度も抱いたことがない。監督は体を動かさない代わりに、あらゆるところへ目配せしながら、思考回路を常にフル回転させている。一方で選手はピッチのうえで、体も頭も動かさないといけない。
監督と選手という立場が違うだけで、目的としてすえられている場所はまったく変わらない。チーム全体で目指しているものを体現するために言葉があるという考え方は、僕のなかにおける普遍的な哲学と言っていい。
(文:曹貴裁、構成:藤江直人)
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