過去の悲劇を普通の出来事として受け止める
現在のアンテ・バニナは穏やかで、歴史的に重要な地域だったという趣はない。この地はサワーチェリーの木が多く生えていることでヴィシュニク(チェリーの意)と呼ばれているが、その果実からはマラスキーノというザダール名物の強いリキュールがつくられる。
件のスポーツ複合施設は、紛争後も資金が投じられていないことで激しく損傷しているが、今も有望な子供たちを迎え入れている。その近くにはクレシミル・チョシッチ・ホールという、この地で愛される子の名を冠した、近代的建築物を象徴する見事なアリーナが立つ。しかし訪問者が少しでも見て回れば、その周囲でセルビアの爆撃跡を発見することは難しくない。
半世紀前にドイツに占拠されて以降では、最も陰惨な時期だった。鳴り止まない警報は、多くの人々にこの地を捨てることを強要した。セルビア人はもちろんのこと、ここで家族とともに住むクロアチア人にとっても、内陸に行くか、もしくは国外へ出た方が安全だった。
事実、ザダールはクロアチア人たちにビエジグラード(ビエジ=逃げる、グラード=町の意)と呼ばれていたのだ。しかしそのことと並行して、この町には周囲の地域やボスニア・ヘルツェゴビナから数万人もの難民がたどり着き(2万5000人前後)、コロヴァーレのようなホテルや、JNAに使用されていた建物で寝泊まりをしていた。
子供たちにとって鉄くずの雨から逃げることがゲームであったように、町はこの悲劇をまるで普通の出来事のように受け止めている。 初めには恐怖があったが、路上にいる機械歩兵、大砲の着弾、そしてありとあらゆる制限が、ほぼ当たり前のものとなっていった。