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世界最高のMFモドリッチの知られざる幼少時代。爆弾が降り注ぐなかでも追い続けたボール

text by ビセンテ・アスピタルテ photo by Getty Images

爆撃があるたび、子供たちにゲームを

 その一方でルカ本人はここまで、何年も使い込んで最後には人にあげてしまった、ロナウド・ナザリオの姿がプリントされたすね当てを思い出すことしかしていない。このザトン・オブロヴァチュキ出身者の来歴は、もっと過酷なものであったはずなのだが。

 ルカにお気に入りのスポーツを楽しんでもらいたいという父親の願望は、経済的な問題よりも優先されていた。そして、この成長途中だった少年が抱えていた問題は、経済的なものだけではなかった。

 NKザダールの練習はアンテ・バニナにあるスポーツ複合施設で行われていたが、そこはユーゴスラビア人民軍(JNA)が配置されていた場所の一つだったのだ。セルビアが出て行った後にも包囲攻撃は続き、クロアチア軍は宿営やインテリジェントビルの多くをそこに配していた。

 そのために、子供たちと軍隊の兵士たちを一緒に目にすることも珍しいことではなかった。それも陸上トラックを使用して、特殊訓練を行っている兵士たちと一緒にいる光景を。そうした単なる兵站的な事情はもとより、その地区での球蹴りは、現実的な困難さも伴っていた。そこはセルビアの爆撃機の標的になっていたのである。つまりは、戦略上の標的地だったアンテ・バニナで、数百人の子供が笑顔でボールを追いかける時間を過ごしていたのだった。

 生存者とも称することのできた当時の保護者たち、指導者たちは、子供たちが日々の不安に怯えるのではなく、楽しい時間を過ごすことを求めていた。そのため爆撃がある度に、一つのゲームが行われることになった。警報が鳴って爆撃兵器が降ってくるときには、定められた避難場所へと走り、真っ先にそこにたどり着いた者が偉大なチャンピオンになれたのだ。

 それは何かが一つでもうまくいかなければ殺戮が起こる状況で、深刻さを排するための手段だった。その特別なゲームが頻繁に行われる時期もあり、最悪の時期には明け方から何百発もの榴弾が降り注いだ。それに苦しんだ人々の思い出によれば、千発を超えるときすらあったという。

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