ミラノでの「成り上がり人生の終わり」
欧州で2ヶ国目となったロシアでも最初はトップ下がメインだった。2010年2月のチャンピオンズリーグ(CL)ラウンド16・セビージャ戦の1stレグでデビューし、3月の2ndレグでゴールまで約30mの位置から直接フリーキックを決め、チームをベスト8へと導いた。
このインパクトはあまりに強烈で、ロシアのみならず世界中が本田の存在を認めた瞬間だった。日本代表の岡田武史監督も「本田がフランスワールドカップのヒデ(中田英寿)みたいにチームを変えるかもしれない」と親しい関係者に打ち明け、2010年の南アフリカワールドカップ直前に1トップに大抜擢。本田はその期待に応え、自身初のワールドカップで2ゴールを挙げて日本のベスト16入りの原動力となる。
移籍からの半年間で周囲のあらゆる環境を一変させるほど、彼は一気にスターダムにのし上がった。CSKAモスクワではその後、ボランチが主戦場になったが、どこでもこなせるバランス感覚の良さは当時のレオニド・スルツキ監督にも高く評価された。
そしてミラン時代は移籍1週間で指揮官がマッシミリアーノアッレグリ、マウロ・タソッティ、クラレンス・セードルフと目まぐるしく変わったため、彼の扱いも激変した。アッレグリ体制では4-3-2-1の2シャドーの一角に入り、中央でタメを作りながら相手の背後を狙ったり、ゴールを奪いにいく仕事をするはずだったが、セードルフ体制では4-2-3-1の右MFへシフト。より縦への推進力を求められるようになった。
ミランではフィリッポ・インザーギ、シニシャ・ミハイロビッチ、クリスティアン・ブロッキ、ヴィンチェンツォ・モンテッラとその後も指揮官がコロコロ変わり、本田への要求も多岐にわたったが、基本的には右サイドかトップ下など2列目が主戦場だったのは間違いない。ただ、ミランでの4年間は思うようにゴールを重ねられず、本人の言う「成り上がり人生の終わり」を迎えた。アタッカーとしては数字が全てであることを、ここまでのキャリアで痛感したに違いない。