ベッドでもボールと一緒に。迫撃砲の轟きなど意に介さず
1991年9月から1992年1月までの間、ユーゴスラビアとクロアチアの艦隊はダルマチアの海域で幾度も交戦した。パグ島からドゥブロヴニクまで戦火にまみれ、とりわけコルチュラ島航路での戦闘は一際激しかった。ザダールはその期間、陸と海から包囲され続け、モドリッチ一家の状況はこれまでと何ら変わらなかった。結局のところザダールは、虎の穴同然だったのである。
しかし、この紛争によって、いくつもの会社が倒産していく壊滅的な経済状況の中でも、スティペ、ラドイカのモドリッチ夫妻は職を見つける幸運に恵まれた。砲弾や爆弾の破片から逃げ惑い、食いつないでいくことだけがほぼ唯一の望みだった時期に、である。
父親はホテル・コロヴァーレにたどり着いてからしばらくして、ザダールから12キロばかりの距離にあるゼムニク空港の航空技師として働き始め、ラドイカはその少し後に裁縫の特技を生かすことになった。
その一方でまだ幼いルカは、先の見えぬ状況にあることを肌で感じてはいなかった。ホテル生活は、そこまで悪いものではなかったのだ。彼はあらゆる場所から集まった子供たちと友情を深めていった。ルカと同じく、家族とともにホテルで寝泊まりしていたマルコ・オシュトリッチならば、彼の生涯最高の友人となり、約20年後にザグレブで執り行われた結婚式の立会人も務めている。
あの金髪の坊やには、いつもボールがついて回った。彼はあの頃のことをほとんど覚えていないが、それでも当時の写真を振り返れば、ボールがいつもそこにあったと認めなくてはならない。その上、彼はベッドにまでボールを持ち込んでいた。ほかの子供がおもちゃと一緒に眠るみたいに。
彼はそのボールを使って、ほかのちびっ子たちと一緒に、もしくは一人きりでプレーに興じた。迫撃砲の轟きなど意に介することもなく。きっと、それは当たり前のことで、何かを意味するものではなかったのだろう。その轟きは、ザダール到着時から自然環境の中に組み込まれていたのだから。