モドリッチ村の難民
クロアチアのザダルで生まれたルカ・モドリッチのファミリーネームは、住んでいた森に由来するという。地名がそのまま名前に使われるのが風習なのだそうだ。
幼少期は戦時下だった。二度住まいを変えていて、モドリッチ一家は難民だった。子供の戦争体験は大人と違っている。本人はそれほど悲惨だとは思っていなかったという。避難先の中庭でボールを蹴っていたモドリッチはクロアチアでも最後のストリート育ちのプレーヤーだ。
10歳のときにハイデュク・スプリトのテストを受けたが不合格だった。体が華奢すぎるというよくある理由である。NKザダルでプレーした後、16歳でディナモ・ザグレブのユースチームに加入した。18歳でトップチームに昇格、10年契約を結んだときの金で故郷にアパートを買い一家の難民生活にピリオドを打つ。
ただ、ザグレブで順婦満帆だったわけではない。すぐにボスニアのズリニスキ・モスタルに貸し出される。後にモドリッチは「ボスニアでプレーできれば、世界のどこでもやれる」と話している。フィールドの劣悪さをはじめ、かなり過酷な環境だった。クロアチア系協会とボシュニク系協会がそれぞれ主催していたリーグが統一されたプレミイェル・リーガで、モドリッチは18歳にしてキャプテンを務め、リーグのMVPに選ばれている。
ところが、次のシーズンにもザグレブには戻れず、クロアチアリーグのNKザプレシッチへ貸し出された。ディナモ・ザグレブにはニコ・クラニチャールがいたからだといわれている。