練習場はまるでアイドルのコンサート
鹿島アントラーズの土台を作ったジーコが指揮を執り、2002年日韓大会の主力だった宮本恒靖(現・G大阪U-23監督)や中田英寿、稲本潤一や小野伸二(ともに札幌)らに加え、2002年出場が叶わなかった中村俊輔(磐田)と高原直泰(沖縄SV代表)も軸を担った2006年ドイツワールドカップの日本代表は「史上最強」の呼び声も高かった。
実際、最終予選出場権獲得直後の2005年コンフェデレーションズカップ(ドイツ)では欧州王者ギリシャを1-0で破り、ブラジルを相手に2-2のドローに持ち込んでいる。
同年夏の東アジア選手権(韓国)では若手だった巻誠一郎(熊本)や駒野友一(福岡)をデビューさせ、2006年初戦のアメリカ戦(サンフランシスコ)では進境著しかった長谷部誠(フランクフルト)をテストするなど、底上げも着々と進んでいるように見えた。
若い世代の中で最終メンバー23人の滑り込んだのは巻1人だったが、中田や中村らが円熟期を迎えた日本代表には2002年超えの大きな期待が寄せられた。
彼らの第一次合宿は5月中旬から下旬にかけて福島・Jヴィレッジで行われた。ブラジル人のジーコは練習完全公開のスタンスを取っていたから、現地にはメディアとファンが殺到。1日2万人が押し寄せる日もあった。
選手がダッシュやランニングをしたり、シュートを放つだけで凄まじい歓声が沸き起こる様子はまるでアイドルのコンサート。「これではワールドカップに集中できない」と苦言を呈する者も現れたが、ジーコはマネージメントを変えようとはしなかった。
メディア対応にしても同様で、中村のように連日報道陣に囲まれて長々と話す者がいる一方、誰からも声をかけられないサブ組がいて、チーム内のバラつきが感じられるようになってきた。