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日本代表 7年前

02年日韓大会。俊輔、衝撃の落選も揺るがず。“奇人”トルシエと個性派集団で16強【日本代表W杯の記憶】

シリーズ:日本代表W杯の記憶 text by 元川悦子 photo by Getty Images

結束力を強めた中山雅史と秋田豊の存在

フィリップ・トルシエ
フィリップ・トルシエ元日本代表監督【写真:Getty Images】

 ただ、高原と中村が外れても、当時の代表には穴を埋められるだけの選手がいた。FWで言えば、6月4日の初戦・ベルギー戦(埼玉)で値千金の先制弾を挙げることになる鈴木がいて、日本ワールドカップ初勝利の決勝点をアシストした柳沢がいた。それ以外にも三都主、西澤明訓(代理人)、1.5列目もこなせる森島寛晃(C大阪強化部長)という変化をつけられるアタッカーがいた。

 中村のところは中田、小野、小笠原満男(鹿島)という能力の高い司令塔が揃っていた。「絶対に中村がいなければ成り立たない」という状況ではなかった。選手層の厚さ、トルシエが足掛け4年がかりで築き上げたオートマティズム、強固な組織力があったから「誰が出ても力が落ちないチーム」になっていたのだろう。そこは中村にとっての不運だった。

 トルシエがやったもう1つの成果はベテランをメンバー入りさせること。すでに代表から長く遠ざかっていた中山雅史(沼津)、秋田豊(解説者)という2人の30代選手を加え、結束力と一体感の醸成に寄与してもらったのだ。

 その効果が顕著に表れたのが、ベルギー戦後にフラット3のラインを下げる決断をした時。宿泊していた静岡県袋井市の「葛城北の丸」の風呂場で、守備陣だけが集まって「トルシエの言う通りにラインの上げ下げをしていたらやられる、もっと現実的になって低いラインで守ることも必要じゃないか」という話し合いが持たれたのだ。

 松田が口火を切り、森岡や中田浩二が賛同する中、最後に背中を押したのは秋田だったはず。重大な決断を下す時はベテランの力が大いに役立つ。そこは森岡も強調していた点だ。

 その森岡がベルギー戦後半に負傷離脱し、ケガが回復せずに焦燥感が高まった時も、秋田や中山、森島といったベテラン選手が献身的にサポートしてくれたという。

「僕は彼らに助けられました。だから一番うれしかったのが、チュニジア戦(大阪・長居)でモリシが先制ゴールを挙げた時。あの時は抱き合って喜びを爆発させました」と本人も嬉しそうに話してくれたことがある。

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