アディダスの看板選手で10番候補も…
ところが、この試合から帰国する途中に高原が胸に痛みを訴えて入院。「エコノミー症候群(肺血栓塞栓症)」と診断される。混乱を避けるため、所属のジュビロ磐田は「急性肺炎」と発表したが、4月半ばをすぎて真実が明らかになった。
これを治すためには血栓を分解しやすくする薬を服用する必要があり、ワールドカップ出場の道は断たれる。このアクシデントにより高原落選が現実味を帯びてきた。日本の最前線は柳沢敦(鹿島コーチ)と鈴木隆行(解説者)に託されることになったのである。
高原ショックも響いたのか、日本代表は5月に入ると停滞感に包まれる。大会直前に赴いた欧州で、レアル・マドリーに0-1で敗れ、ノルウェーにも0-3で完敗してしまう。攻撃陣は精彩を欠き、頼みの綱だった「フラット3」も高いラインの裏を突かれるという失態を演じる。この時点ではまだ森岡が復帰していなかったとはいえ、チームに不穏な空気が漂ったのは確かだ。
それに追い打ちをかけたのが、中村俊輔(磐田)の落選だった。5月17日のメンバー発表会見に登壇したのはトルシエではなく、木之本興三代表チーム団長(当時)。トルシエはアディダスの看板選手で10番候補だった中村を落とすことで批判が高まるのを恐れて帰国のタイミングを延ばしたのだ。
「彼はキリンカップ(2002年5月のホンジュラス戦=神戸)の途中にケガをした。その後のスペイン合宿でも練習さえ参加できなかった。チームには日本国籍を取得したばかりの三都主(アレサンドロ)もいたから、三都主の方が活躍できると判断したんだ。
ただ、中村がケガをしていなかったとしても、三都主を選んだかもしれない。当時の彼はオン・ザ・ボールの時は非常に優れていたけど、オフ・ザ・ボールでは足りないところが多かったからね」とトルシエは後に述懐したが、中村を外したのはそういう技術・戦術的な部分だけではなく、日本で一番人気の選手に対する劣等感もあったと言われた。