捨てきれなかったサッカーへの思い
そこで彼はクラブを辞め、働きに出た。午前中は家業である魚売りを手伝い、午後にはバランキージャとプエルト・コロンビアの間を走る路線バスの切符切りを務めた。働いた分だけ収入は保証される職業経験から、サッカーへの情熱を失いかけた時期もあったというのだ。ミランに所属していた頃、ガゼッタ・デッロ・スポルトのインタビューに応えて彼はこう述懐している。
「働き始めたのは、サッカーには何の希望も抱けなくなったからだ。沢山トレーニングするようには言われるけれど、それが実生活にどんなチャンスを与えてくれるのかも良く分からなかった。そこそこ自分はうまかったけど、練習が嫌だったし、努力が嫌いだったし、何より朝早く起きるのが嫌だった。仕事をすると、少ない努力で生活の収入は入る。でもサッカーはそうはいかなかった」
将来に確約のない努力よりも堅実な生活収入を選ぼうとしたバッカだったが、サッカーそのものは捨てきれなかった。バス会社の社員でアマチュアチームを組み、大会に出れば活躍する。そして車掌から運転手に昇格して給料が上がり、生活が楽になったところで彼は再びサッカーに取り組み始めた。
バランキージャをホームタウンとするアトレティコ・ジュニオールのトライアルを受けて、見事合格。下部組織に入ってリーグ戦で48ゴールを挙げたバッカは、2006年から当時2部に所属していたバランキージャFCに入団した。
2部で得点王になるなどストライカーとして着実に実績を残した彼は、2009年からアトレティコ・ジュニオールのトップチームに再入団。そして130試合出場73ゴールの成績を挙げた。アトレティコ・ジュニオールは、彼自身もファンだったクラブ。地元で育ち、活躍する彼を地元の人々は出身地にちなんでこう呼んだ。「プエト・コロンビアの息子」だと。