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Jリーグ 7年前

岡山社長からJ専務理事へ。木村正明に燻り続けた「悔い」の正体、歩んできた激動の半生

text by 藤江直人 photo by Getty Images, Yasuhiro Suzuki, Naoto Fujie

急転直下の帰郷。窮地の地元クラブから受けたラブコール

ファジアーノ岡山
ファジアーノ岡山は地元で多大な支持を獲得し、2016年にはJ1昇格プレーオフに進出するまでに成長した【写真:Getty Images】

 実はゴールドマン・サックス証券に勤務しながらも、サッカーを続けていた。活動休止状態にあった東京大学運動会ア式蹴球部のOBチームを、1994年から「チームDiego」として再結成。東京都社会人リーグの4部からスタートし、仕事と格闘しながら2005年には2部へ昇格させた。

 木村氏は「11番」を背負い、フォワードとして活躍していたが、37歳だった2006年5月に現役からの「引退」を決意する。約14年務めたゴールドマン・サックス証券を退社し、生まれ故郷の岡山へ戻って第二の人生を歩み始める決断を下したからだ。

 川崎製鉄水島サッカー部OBが中心となって結成されたリバーフリーキッカーズを中核として、Jクラブが不毛だった地にファジアーノ岡山が産声を上げたのが2003年。地域リーグを戦っていた当時から、寄付金などを通して地元に産声をあげたクラブと交流をもってきた。

 そして、近い将来のJリーグ参入を目指して、運営会社となるファジアーノ岡山スポーツクラブを立ち上げることが決まると、代表取締役に就任してけん引してほしいと熱いラブコールを受けた。

 当時はゴールドマン・サックス証券のマネージングディレクター(MD)だけでなく、社員の採用責任者も担っていた。成果主義を導入する同社の報酬水準では、MDとなると年収も億単位に達する。それでもひと晩熟考した末に退社を決め、2ヶ月後の2006年7月にファジアーノ岡山スポーツクラブの代表取締役に就いた。

「迷いましたけど、それでもすぐに答えなきゃいけないと思いまして。それまではずっとOBチームでボールを蹴っていましたけど、やはり体育会に入れなかったことが自分のなかに残っていて。なので、自分のなかではずっとサッカーに携わっている、という思いがあります」

 ゴールドマン・サックス証券には十二分に貢献できた、という自負があった。一方で生まれ育った故郷に貢献したい、一生に一度あるかどうかわからない、恩返しができる機会を逃したくない、という思いがどんどん募ってくる。

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