「コレクティブは、物事を解決できる個人を受け入れる」
――選手は、やはり決定的な存在です。フットボールはコレクティブなスポーツですが、最後に物を言うのが個の力なのではないかという印象を受けることがあります。
V このスポーツがコレクティブなものであることを表しているという点において、アスレティックこそ最たる模範じゃないか。(自身がアスレティックを率いている)今だから言うわけじゃなく、もうずっとそうなんだよ。
もちろん選手個人に懸かっている瞬間や、選手間の競争は存在しているが。その一方で、監督という存在について何かを言おうとは思わない。
監督はとても矛盾していて、グループ全体を代表しながらも、しかし根本的には一人だ。まあ監督は、接着剤的なものを塗って――いくつかのクラブではより簡単にそうできる――、それを何かしらの方法で固める役割と捉えられる。
強いエゴを持つ選手については……、それがあるからこそ競争に最大限取り組める。選手は、そういったものだって持っていなくてはならない。
つまり最高の力を引き出すためには、グループのことを考えながらも、抜きん出よう、傑出しようという野心も備えている必要があるんだ。基本的に、偉大な王者たちは自己評価が高く、ほかよりも上に立つことを求めている。そうしたことをうまく管理しなければならない。
――世界王者となった1986年のアルゼンチン代表は、マラドーナとほか10選手のチームだったのでしょうか?
V どういうことなのか分かるかい? コレクティブは、物事を解決できる個人をしっかりと受け入れるんだよ。それは恩恵になることだからね。
コレクティブは、個の力を自分たちの強みにできる。素晴らしい選手たちは調和するもので、グループはそういった選手たちを組み込もうと試みるんだ。違いを生み出せる選手がいて、まとまらない方が逆に難しい。これらすべて、興味深い研究対象だと思わないかい?