ボランチに開眼し、プレースタイルが広がる
高校時代、お山の大将の司令塔だった僕が、今でいうボランチをやるようになったのは大学生になってからですね。東海大の宇野(勝)監督から「守備ができない選手は(役割の)半分しかプレーしていない」と言われたのがきっかけでした。
その後、加茂さんの指導を受けたことで、僕のプレースタイルの方向性が決まりましたが、94年に(パウロ・ロベルト・)ファルカンの日本代表に呼ばれたことも大きかった。確かにケガしたことで、代表で過ごした時間は限られていました。それでも現役時代のあの人って、ボランチの名手だった。ボランチの何たるかを学ばせてもらいましたね。
その次の年には、鹿島(アントラーズ)にジョルジーニョ、(ジュビロ)磐田にドゥンガ、そしてフリューゲルスにサンパイオが来て僕とコンビを組みました。現役のセレソンがJリーグでボランチをやっていたら、当然勉強になりますよね。
さらに僕にとってラッキーだったのが、98年に(カルロス・)レシャックがウチの監督になって、バルサ(FCバルセロナ)のメソッドを持ち込んだこと。僕はバルサの(ペップ・)グアルディオラが好きでしたし、スペインで言うところの「ピボーテ」の役割を学ぶこともできました。確かに少し日本では早すぎたと思いますが、僕自身はプレーの幅が広がりましたね。
現役時代は、そういった出会いに本当に恵まれていたと思います。そんな中、特に影響を受けたひとりがサンパイオでした。実は彼、セレソンに定着したのは日本に来てからなんですよね。ですからよく「オレはJリーグのおかげで成長することができた」と言っていました。
98年のフランスでのワールドカップで、サンパイオはオープニングゴールを挙げたんですが、あれはコーナーキックから頭で決めたんです。「おめでとう!」って電話したら、「あのゴールを決められたのはフリューゲルスのおかげだよ」って。そういえばウチでも、ジーニョのキックからよくゴールを決めていましたね。
ワールドカップがあった年に、フリューゲルスと(横浜)マリノスとの合併が発表になったんですよね。あれから20年ですか。(発表があった10月29日の)前の夜、アツ(三浦淳宏)から「フリューゲルスが無くなる!」っていう電話がありました。その時は「それはないだろう」って感じで受け流していました。
確かに「佐藤工業が撤退するかも」みたいな噂は耳に入っていましたが、それでも「大変そうだな」みたいな感じでした。合併が本当だとわかったのは、翌朝の新聞を見てからです。何が何だかわからないまま、東戸塚の練習場に向かったら、すでに大勢の報道陣が集まっていました。
<後編につづく。文中敬称略>
(取材・文:宇都宮徹壱)
【了】