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Jリーグ 7年前

那須大亮が目指す完全燃焼。幾多の挫折バネに這い上がったサッカー人生【谷間の世代と呼ばれて】

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Getty Images

アテネ五輪ではキャプテンも。移籍してもガムシャラに

那須大亮
柏レイソル時代の那須大亮は天皇杯優勝などに貢献した【写真:Getty Images】

 アテネ五輪代表の那須は主に最終ラインで起用され、茂庭照幸(C大阪)、田中マルクス闘莉王(京都)、菊地直哉(札幌)らとのポジション争いを強いられたが、山本昌邦監督からの信頼は絶大だった。予選のキャプテンだった鈴木啓太がメンバーから外れた本大会ではキャプテンマークを託されたほどだ。

「そのキャプテンっていう役割を特別に考えすぎた自分がいましたね……。ピッチに立つ時は自然体が一番いいし、キャプテンなんてあってないようなものだったのに、硬くなりすぎた。その結果が初戦・パラグアイ戦でのミス。失点に直結するプレーをしてしまって前半だけで代えられたんです。2戦目のイタリア戦も後半からの出場で、チームは2-3で負けてしまった。チームとして結果が出なかったこともそうだけど、自分自身がやりきれなかった後悔が物凄かった。当時は若かったし、意気込んでた部分もありましたし、ホントに大きなショックを受けました」と那須は大きな挫折を改めて述懐する。

 チームに戻った後も苦しみは続いた。2004年の横浜FMは浦和レッズとのJリーグチャンピオンシップを制し連覇を果たしたが、那須自身はケガで大一番を欠場。タイトル獲得の瞬間をピッチ上で味わえなかった。その後、チームは優勝争いから遠ざかり、指揮官が岡田から水沼貴史(解説者)、早野宏史(解説者)と目まぐるしく変わる中、自身の起用法も変化していった。

 そんな状況下でも、那須はガムシャラさと貪欲さを持ち続け、懸命に這い上がろうとした。つねに真剣に自らのあり方を模索することも忘れなかった。その1つの答えが2008年の東京ヴェルディ移籍だった。

 東京Vが1年でのJ2降格と余儀なくされると、翌2009年にはジュビロ磐田へ移籍。2012年には柏レイソルへと赴く。そして2013年にはミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現札幌)率いる浦和へ5度目の移籍に踏み切る。「必要とされるところに行くのがサッカー選手の仕事」という職人気質を実行に移すのが、この男の真面目さだろう。

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