同世代選手たちの活躍もエネルギーに
川崎フロンターレが2006年に立ち上げたU-12の1期生として、小学校4年生のときから下部組織で将来のプロを夢見て心技体を磨いた。U-18ではキャプテンも務め、同期入団のMF三好康児とともに、2015シーズンから念願のトップチーム昇格を果たした。
しかし、憧れ続けてきた舞台では、プロの高く険しい壁の前にはね返され続けた。ルーキーイヤーはJリーグU-22選抜の一員として、J3で2試合プレーしただけに終わった。
2016シーズン以降の2年間もリーグ戦ではトータル7試合、それもすべて途中出場にとどまった。プレー時間の合計は、ほぼ1試合分の93分間。迎えた昨季のオフ。オファーをもらっていたベガルタへ期限付き移籍することを決めた。
「フロンターレでずっとプレーしてきたこともあって、正直、迷いはありました。それでも、移籍を決めたときには仙台で自分のプレーをしっかり出そう、という気持ちに切り替えました。同世代の選手がけっこう試合に出ていたので、焦らずに、とは思いつつも、少し焦りもあったので。
いまは目の前の1試合、1試合と思いながらプレーしています。全試合出場を目標として掲げながらプレーしていますけど、改善しなきゃいけないところがまだまだある。いまは試合に出られていますけど、これからいろいろな意味で競争があると思っています」
板倉が言葉にした「同世代」とは、2年後に迫った東京五輪世代に他ならない。出場資格を有するのは、1997年1月1日以降に生まれたすべての選手。1997年の早生まれで、ベガルタに合流した直後の1月27日に21歳になった板倉は、最も年長の選手の一人となる。
新天地への合流が始動後に遅れたのは、森保一監督に率いられたU-21日本代表の一員として、中国で開催されたAFC U-23選手権を戦っていたからだ。
東京五輪の男子代表監督を務める森保監督のもとで臨む初めての公式戦。ともに1‐0のスコアで勝利したグループリーグのU-23パレスチナ、タイ両代表との試合で決勝ゴールを挙げたのが、3バックの左を務めた板倉だった。