「『浦和の男』で始まり、『浦和の男』で終わります」
「僕はプロサッカー選手として『浦和の男』で始まり、『浦和の男』で終わります」
2015年11月22日のJ1最終節・ヴィッセル神戸戦。このシーズン限りでユニフォームを脱ぐ決断をした鈴木啓太は試合後のセレモニーで力強くこう言った。
その言葉は2年以上の月日が経過した今も浦和レッズサポーター、多くのサッカーファンの脳裏に焼き付いている。彼は五輪、ワールドカップなどの世界大会にあと一歩のところまで行きながら、一度も参戦するには至らなかった。
浦和でもJ1やアジアチャンピオンズリーグ(ACL)の優勝は手にしたが、MVPや新人王のような個人タイトルからも縁遠かった。にもかかわらず、サッカー界に絶大なインパクトを残している。鈴木啓太には人を惹きつける独特の魅力があるのかもしれない。
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日本屈指のサッカーどころ・清水(現静岡市)で81年に生まれ、清水FC、東海大一中、東海大翔洋高と名門チームで実績を積んで2000年に当時J2の浦和に加入した鈴木啓太。
1年目こそ出番を得られなかったものの、チッタ・ピッタ両監督が率いた2001年のJ1でチャンスをつかみ、ハンス・オフト監督が就任した2002年からは完全にボランチのレギュラーに定着した。
この活躍ぶりが、2004年アテネ五輪に向けて本格始動したU-23日本代表の山本昌邦監督(現解説者)の目に留まり、2002年9月のアジア大会(韓国・釜山=準優勝)メンバーに初招集された。
「自分は前年のワールドユース(2001年アルゼンチン大会/現U-20ワールドカップ)には出られなかったし、その時のメンバーがアテネ五輪代表の中心になることも分かっていた。でも『スタートラインは一緒だな』というフレッシュな気持ちで挑みましたね」と彼は述懐する。
だが、アテネ世代の船出は険しいものだった。アジア大会直前に戦った当時の最強軍団・ジュビロ磐田と練習試合で0-7と惨敗。ワールドユースのグループリーグ敗退という成績と相まって「谷間の世代」という有り難くない称号を与えられたのだ。