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Jリーグ 7年前

田中マルクス闘莉王が京都の若手に伝える闘争心。限界までチャレンジする覚悟【谷間の世代と呼ばれて】

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Getty Images

「ヤットのようにジョギングでサッカーできる人ならいいけど」

2016年はブランクを経て名古屋に復帰しチームを勢いづけたが、J1残留は果たせなかった
2016年はブランクを経て名古屋に復帰しチームを勢いづけたが、J1残留は果たせなかった【写真:Getty Images】

 日本を代表するDFとして長く君臨した彼だったが、2015年にショッキングな出来事が起きる。6シーズン在籍した名古屋から年俸の大幅減額を提示されたのだ。それに納得できなかった闘莉王は2016年1月に退団。母国・ブラジルに帰って無所属生活を過ごした。

 それが8ヶ月間続いた同年8月末、古巣からの再契約の打診があり、それを受けて9月から日本に復帰。2016年シーズン終盤戦を戦ったが、最終的に名古屋をJ1残留へと導くことはできず。そのまま名古屋を離れて、2017年は京都で14年ぶりのJ2に挑む決意を固めたのだった。

「2016年に1年くらいサッカーをやらずにいて、いきなり日本に帰ってきたんで、今年はキャンプからしっかりやったつもりだった。だけどシーズン2試合目(3月4日=徳島ヴォルティス戦)でいきなりケガをしてしまった。

 4月(15日の愛媛FC戦=ハットトリック達成)に帰ってきたらまたケガ。まあポジションが違うのもありますし、体を使う部分も前目だと変わったりするんで、そういうところも含めて非常に苦しんだシーズンだったと思います」

 闘莉王自身が言うように、昨季はケガに悩まされながらもFWとして奮闘。31試合出場15ゴールという数字を残した。15ゴールというのはチーム最多得点なのはもちろんのこと、J2得点ランキングでも11位。昨季ともにプレーした名古屋のシモビッチ(現大宮)の18得点と3ゴールしか違わない。それほど闘莉王の傑出した得点センスが光っていたのは確かだ。

 しかし、本人としては「自分の体がなかなかついてこなくて、J1昇格プレーオフまで行けなかった。そのくらいは争えるチームだったのに自分のブランクを正直、強く感じた」と不完全燃焼感ばかりが残った様子だ。

「体が万全だったらもうちょっとできると思うけど、自分ができると思って反応していた時と頭は一緒でも体がついてこない。自分のイメージと実際の反応が違うんで。ヤット(遠藤保仁=G大阪)のようにジョギングでサッカーできる人ならいいけど、自分はバンバン競んなきゃいけないし、バンバン体を当てなきゃいけない(苦笑)。それが大変なんです。そういうギャップがあるのは正直、きつい」という本音も吐露していた。

 柳沢敦(鹿島コーチ)が2014年シーズンを最後にピッチを去った時も「イメージとプレーのギャップ」を引退理由に挙げていただけに、闘莉王が現役を退くべきではないかと考えるのも理解できる。

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