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Jリーグ 7年前

田中マルクス闘莉王が京都の若手に伝える闘争心。限界までチャレンジする覚悟【谷間の世代と呼ばれて】

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Getty Images

2003年に日本国籍を取得。スターダムを駆け上がる

2010年の南アフリカW杯では日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献した
2010年の南アフリカW杯では日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献した【写真:Getty Images】

 81年にサンパウロ州のパルメイラ・ド・オエスチで生まれた闘莉王は渋谷教育学園幕張高校の宗像マルコス望監督に非凡な才能を見出され、98年1月に16歳で単身で日本へやってきた。2002年にサンフレッチェ広島入りし、2003年に水戸ホーリーホックへ移籍した時はまだブラジル国籍だった。

 が、アテネ五輪代表入りを熱望された彼は同年10月に日本国籍を取得。2014年1月の浦和レッズ移籍直後にはアテネ五輪アジア最終予選に参戦し、本大会出場を果たすなど、日本サッカー界のスターダムを駆け上がっていく。

 浦和時代は2006年のJリーグ制覇とMVP獲得、2007年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)優勝とFIFAクラブワールドカップ3位躍進と数々の成功を収め、2010年に赴いた新天地・名古屋グランパスでも1年目からリーグ制覇を達成。同年に開かれた南アフリカワールドカップでも中澤佑二(横浜)とのセンターバックコンビで鉄壁の最終ラインを形成した。

 南アW杯は岡田武史監督(現FC今治代表)の戦い方の方向性が直前まで揺れ動き、チームが混乱していたが、闘莉王が事前合宿地のスイス・サースフェーで「俺たちは強くない。弱者の戦い方をする必要がある」と口火を切ったことから、超守備的戦術へと舵を切った経緯がある。

 闘莉王がいなければ、日本のベスト16もあり得なかったと言っても過言ではない。同じ81年生まれの「谷間の世代」である阿部勇樹(浦和)、松井大輔(オドラオポーレ)、駒野友一(福岡)とともに、闘莉王は日本代表を歴代最高地点へとけん引したのだ。

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