準決勝で退場となり、ひと足早く最後の試合を迎えたDF
横浜フリューゲルスが消滅してから、間もなく20年。当時の選手の多くはすでに現役を引退し、指導者の道を進んだものも少なくない。山口素弘、吉田孝行、前田浩二、そして今回登場する薩川了洋もそのひとりだ。
薩川は91年に清水商業高校から、当時の全日空に入団。フリューゲルス消滅後は柏レイソルに移籍して、05年に33歳で現役を引退した。その後は柏の普及部を経て、AC長野パルセイロ(10~12年)、FC琉球(13~15年)、SC相模原(16年)、奈良クラブ(17年~)の監督を歴任している。
現役時代の薩川は、1対1の場面でめっぽう強さを発揮するDFとして知られ、冬でも半袖シャツを着ていたことからファンの間では「半袖隊長」のニックネームで親しまれていた。
キャリア終盤の03年、右足下腿部を骨折する大怪我に見舞われたが、J1出場数は311試合。代表のキャリアを持たない選手としては有数の記録となっている。
そんな薩川だが、実は99年元日の天皇杯決勝には出場していない。大阪・長居で行われた準決勝の鹿島アントラーズ戦で、薩川は不運にも退場処分を受けてしまったからだ。
チームメイトよりもひと足早く、フリューゲルス最後の試合を迎えた時、その胸中を去来したものは何か? そして自分がいない決勝のピッチを眺めながら何を思っていたのか?
今は奈良クラブの指揮官として、J3昇格を目指す「半袖隊長」薩川。その19年目の独白に、しばし耳を傾けてみることにしたい。