深く脳裏に刻まれている2005年と2008年のシーズン
その後、札幌で出場機会を増やしたが、山本昌邦監督率いるアテネ五輪代表では黒河、林卓人(広島)の後塵を拝し、アジア最終予選も本大会も出場できなかった。最終的にアテネ世代からは川島永嗣(メス)がA代表に定着することになるが、81年組のGKは川口能活(相模原)、楢崎正剛(名古屋)という上の世代と、川島、西川周作(浦和)ら下の世代に挟まれる格好になった。そういう意味で不遇を味わったとも見ることもできる。
しかしなから、2005年に移籍したガンバでは日の当たる舞台に上がることができた。初年度は後半戦から出場機会を得て、ガンバのJ1初制覇に貢献する。さらに2008年にはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)優勝の原動力にもなった。同年のFIFAクラブワールドカップでは準決勝でマンチェスター・ユナイテッドに3-5という派手な試合を演じた末に敗れたが、3位決定戦では現在、本田圭佑が所属するパチューカに勝利。3位に輝いた。
2001年ワールドユース以外は代表レベルの国際大会に出ることのなかった藤ヶ谷にとって、このクラブW杯は唯一無二の世界的な大舞台だったと言っていい。さらに同年は天皇杯も制覇。大いなる充実感を味わった。
「思い出に残っているのは、まず2005年のJ1で初優勝した時ですね。移籍してきて僕はすぐケガをして、なかなか試合には絡めなかったんですけど、そこから夏過ぎくらいにようやく試合に絡めるようになって、優勝する瞬間はピッチに立ってその瞬間を味わうことができたたので、本当に印象深く残っています。
あとは2008年のACL優勝。あの瞬間もそうですし、あのシーズンっていうのは、ACLで優勝して、その後のクラブW杯に出て、また天皇杯もあって、その天皇杯で優勝して終わることができたので、あの1年は本当に濃い1年だったなって思います」と本人は引退会見でもコメントしているが、2005年と2008年を2つのシーズンはとりわけ脳裏に深く刻まれている。A代表には縁がなかったにもかかわらず、こうした華々しい時期を過ごせるGKもそうそういない。彼は幸運な男だったと言えるだろう。