保ち続けたフラットかつ冷徹な視線
当連載を執筆する中、当時のさまざまな資料や記事に当たりながら、時おり考えることがある。それは「もし自分が取材者だったら、どんなアプローチで記事を書いただろうか?」ということだ。
横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が報じられた1998年10月29日当時、私はすでに「写真家・ノンフィクションライター」を名乗っていたものの、Jリーグや日本代表の取材実績はまったく持っていなかった。
それゆえ本件に関しては、取材者ではなく一読者であり、さらに言えば傍観者でしかなかったのである(当連載は、そうした過去の負い目も原動力のひとつになっている)。
さまざまな「当事者」たちの言葉を集めて「Fの悲劇」を再現する当連載。第6回となる今回は、この「合併劇」を追いかけていた取材者に語ってもらうと思う。
ジュンハシモトは、私と同世代のフリーライターで、現在は夫と息子の3人で兵庫県西宮市で暮らしている。なぜ新聞や専門誌の記者ではなく、フリーランスである彼女に話を聞くのか。理由は3つある。
まず彼女は、フリューゲルスというクラブや目前で行われる試合よりも、一貫してサポーターに主眼を置いて取材を続けていたこと。次に、彼女の発表媒体が『週刊SPA!』という一般週刊誌であり、社会現象として「合併劇」を捉えていたこと。
そして、専門誌やスポーツ紙にありがちな情緒感を排し、フラットかつ冷徹な視線を保ち続けたことである(本人も「冷たいヤツだな」という自覚があるようだ)。
そして彼女の鋭敏な眼差しは、現場で取材していた新聞社や専門誌の記者、さらには当時の出版業界に対しても向けられていた。これまた、ある種の「ムラ社会」に対する強烈なアンチテーゼとして興味深い。仕事と母親業の両立に忙しそうなハシモトに、さっそく当時の記憶をたどってもらうことにした。