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Jリーグ 7年前

福岡をPO決勝に導いた山瀬功治。何度も経験した大ケガ。ボランチという新境地【谷間の世代と呼ばれて】

シリーズ:「谷間の世代」と呼ばれて text by 元川悦子 photo by Getty Images

何度も訪れたケガとの戦い

日本代表としては13試合に出場している山瀬
日本代表としては13試合に出場している山瀬【写真:Getty Images】

 北海高校で育った山瀬は2000年にトップ昇格してから一気に頭角を現した。中でもインパクトが大きかったのが、2001年ワールドユース(アルゼンチン)のアンゴラ戦とチェコ戦で計2得点を叩き出したこと。

 チームはグループリーグ敗退の憂き目に遭い、2つ上の黄金世代との対比から「谷間の世代」と揶揄されたが、鮮烈な印象を残した背番号13の評価は急上昇。「将来の日本代表の10番候補の1人」とさえ見る向きも出てきた。

「僕自身はそういうふうには捉えてなかったですね。自分はヒデ(中田英寿)さんや俊(中村俊輔=磐田)さん、伸二(小野=札幌)さんみたいな天才肌の人間じゃないし、カリスマ性を持ってたわけじゃないから。そういう選手が僕らの世代にはいなかった。

 監督の西村(昭宏=高知ユナイテッド・スーパーバイザー)さんも『チーム全体でやっていく』ってスタンスを採っていたし、全員がチームをよくするためにどうするか、どれだけ組織として動けるかってことを強みにせざるを得なかったと思います。

 ただ、よく考えてみると、日本サッカー自体、強烈な個がいない部分、組織としてどう動けるかが大事になってくる。それは日本のどのチームも代表もそうですよね。僕らはユース年代の頃からベースがあったんで、そういう傾向に合わせやすかった。谷間の世代うんぬんが幸か不幸かは別として、それは1ついいことだったかな」と山瀬は81年生まれ世代の一員としてのプラス効果を口にする。

 とはいえ、山瀬のキャリアはその後も順風満帆とは行かなかった。最たるものがケガだ。2002年の右ひざじん帯断裂の重症に始まり、浦和レッズ移籍後の2004年には左ひざじん帯断裂に見舞われる。

 2005年には札幌時代の恩師・岡田武史監督(現FC今治代表)率いる横浜F・マリノスへ移籍するも、今度はヘルニアに悩まされ、コンディションが戻るまでに時間を擁した。20代のいい時期の大半をケガとの戦いに費やしたため、山瀬は傑出した才能を持ちながらも日本代表定着は叶わず、2010年南アフリカワールドカップ参戦も果たせなかった。

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