2005年、アディショナルタイムに訪れた2度目の悲劇
2002年にはワールドカップが、日本と韓国で共同開催される。代表での活動を考えれば、リスクを伴う決断だった。果たして森島氏はトルシエジャパンのスーパーサブとして活躍し、長居スタジアムで行われたチュニジア代表とのグループリーグ最終戦では先制ゴールも決める。
一方のユン監督はJ2でのプレーを選択したことで、韓国代表を率いていたフース・ヒディンク監督の信頼を得られず、ベスト4進出の快挙を達成したチームのなかで出場機会を得られなかった。
約束通りに1年でのJ1復帰を果たしたセレッソの歴史の一部には、ワールドカップ日韓共催大会という舞台に関して、同じ1972年度生まれの2人の男たちの悲喜も刻まれている。
そして、18チームによる1ステージ制に変更された2005シーズン。タイトルにはカウントされないステージ優勝ではなく、リーグ優勝をつかみ取る絶好のチャンスをセレッソは手にした。12月3日の最終節を前にして、セレッソは単独首位に浮上していた。
再び舞台となった長居スタジアムには、5年前を上回る大観衆が詰めかけていた。しかも、FC東京を2‐1とリードしたまま、時計の針は3分間の後半アディショナルタイムへ突入しようとしていた。
ピッチを縦横無尽に駆けまわり、後半37分にベンチへ退いてからは応援役に徹していた森島氏は、時計を見ながら「これは勝ったかな」とほんの一瞬ながら思ったという。
「試合終了のホイッスルが鳴り響くまでは、絶対に油断してはいけないと言い聞かせながらプレーしていたんですけど……同じように最後にピッチにいた選手たちにも、最後の最後になって、一瞬の隙というものが生まれてしまったのかなと……」
FC東京が獲得した右コーナーキックからゴール前の混戦が生まれ、何とか頭でかき出したDF柳本啓成のクリアも中途半端になってしまう。すかさず反応したMF今野泰幸(現ガンバ)が、胸トラップから流れるような動きを見せて左足のシュートを放つ。
ボールはゴール前の密集地帯をすり抜け、ゴールネットを揺らす。まだ時間は残っていたが、ピッチ上のセレッソの選手たちにも、ベンチにいた森島氏にも、自分たちを鼓舞する力はもはや残されていなかった。