ファンやサポーターの記憶に残る永遠のレジェンド
青空を見上げながら、セレッソ大阪の悲願を成就させた後輩たちの手で宙を舞う。何度も夢に見てきた至福の時間は、しかし、思い描いていた時間の半分で突然の終焉を迎えてしまった。
クラブに初タイトルをもたらしたユン・ジョンファン監督に続いて、初代ミスター・セレッソとしていまもファンやサポーターの記憶に残る永遠のレジェンド、森島寛晃氏が胴上げされた直後だった。
「うわっ、重たってみんな言って、下に誰もいなくなった。あれはちょっと意図的だったと思います」
両手を大きく広げながら4度舞ったユン監督とは対照的に、2度目で埼玉スタジアムのピッチに落とされる。慌てて立ちあがり、ぼう然としている森島氏の周囲に爆笑の輪が広がっていく。
現役を退いて9年。アンバサダーをへて、今シーズンからフットボールオペレーショングループの部長としてフロント入りした森島氏が、いかに愛されているかを物語る微笑ましい光景だった。
「本当はもうちょっと宙を舞いたかったかな。ただ、ああいう歓喜の輪というものに、いままでは一度も入れなかったので。選手たちはみんないい表情をしていましたし、ファンやサポーターの方々を含めて、25周年という記念すべき年に優勝できたことを本当に嬉しく思います」
前身のヤマザキナビスコカップ時代から数えて25周年となる節目のシーズンで誕生した、通算12チーム目となるカップ戦ウイナーズ。もっともヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)が連覇を達成した最初の2大会、1992シーズンと1993シーズンにセレッソは出場していない。
当時は前身のヤンマーディーゼルサッカー部として、ひとつ下のカテゴリー、旧ジャパンフットボールリーグ1部を戦っていた。プロ化の波に乗り遅れ、昇格争いでもジュビロ磐田とベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の後塵を拝した黎明期から、森島氏は「8番」を背負い続けてきた。
静岡県の東海大学第一高校からヤンマー入りしたのが1990年。活躍の舞台をJリーグに求め、移籍していったチームメイトたちが少なくなかったなかで、1994シーズンからセレッソ大阪に改称され、翌年からはJリーグへ昇格したチームを無我夢中でけん引してきた。