無名の存在からA代表入りを果たした選手としてのキャリア
トルシエ監督を除いて、年齢制限が設けられて以降の五輪代表監督は日本人が務めてきた。そのなかでも森保監督は現役時代の実績で、たとえば国際Aマッチにおける出場試合数などで群を抜く数字を残している。
もっとも、ハンス・オフト監督のもとでA代表デビューを果たした、1992年5月のアルゼンチン代表との国際親善試合のときはまったくの無名で、旧国立競技場の電光掲示板に記された「森保一」を知るファンやサポーター、そしてメディアは実は少なかった。
勘違いから「もり・やすいち」とされ、「保一」がその後のニックネームである「ポイチ」になった。アトランタ五輪の指揮を執り、ブラジル代表を破る「マイアミの軌跡」を起こしたJFAの西野朗技術委員長はいまでも「思わず『ポイチ』と呼んでしまう」と苦笑いする。
それでも日本サッカー界に「ボランチ」という単語を浸透させた献身的なプレースタイルと、サッカーに対する実直で真摯な姿勢で誰からも厚い信頼を受けた。
指導者になってからもスタンスは変わらず、ちょうど24年前の「ドーハの悲劇」を戦った代表選手22人のなかでは、サンフレッチェ広島監督として誰よりも早くJ1を制し、そして誰よりも早く日の丸を背負って大舞台に挑む大役を担った。
「私は無名な選手でしたが、マツダや広島では選手としても、指導者としても、そして人としても育ててもらった。偉そうに教えるつもりはないですけれども、その意味ではサッカー選手としても、人としてもプラスになったと思ってもらえるように、自分がしてきてもらったことを私が預かる選手たちにもしていきたいと思っています」
どこまでも謙虚だからこそ、トルシエ監督のように軋轢を生じさせる心配もない。会見に同席したJFAの田嶋幸三会長、西野技術委員長も全面支援を約束したなかで、J1を3度も制した勝負師の一面ももつ49歳の指揮官がいよいよ注目の第一歩を踏み出す。
(取材・文:藤江直人)
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