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日本代表 7年前

東京五輪へ、森保一監督が踏み出す第一歩。自国開催の強み、トルシエJの成功体験

text by 藤江直人 photo by Getty Images

トルシエジャパンの実績。日本サッカーにとっての成功体験

2002年の日韓W杯で日本をベスト16に導いたフィリップ・トルシエ元日本代表監督
2002年の日韓W杯で日本をベスト16に導いたフィリップ・トルシエ元日本代表監督【写真:Getty Images】

 腰をすえながら、時間をかけてチームを熟成させていく。予選を経ずに臨んだ大舞台で結果を出したという点で、日本サッカー界はひとつの成功体験をもっている。2度目の出場にして初めて決勝トーナメント進出を決めた、2002年のワールドカップ日韓共催大会だ。

 指揮を託されたフランス人のフィリップ・トルシエ監督は、初陣となった1998年10月のエジプト代表との国際親善試合こそFW中山雅史が決めたPKを守り抜いて1‐0で勝利したが、続く1999年からは低空飛行を強いられた。

 3月のブラジル代表との国際親善試合に敗れると、ベルギー、ペルー両代表を招いた6月はともにスコアレスドロー。招待参加した南米選手権ではボリビア代表と引き分けるのが精いっぱいで、ペルー、パラグアイ両代表には惨敗。9月のイラン代表との国際親善試合も引き分けた。

 A代表が年間を通じて未勝利に終わったのは、前代未聞の事態だったと言っていい。当然ながら時間の経過とともにファンやサポーターの批判の声が大きくなり、トルシエ監督のエキセントリックな性格も手伝って、JFA内でも逆風が吹くようになった。

 もっとも、当事者であるトルシエ監督本人はまったく意に介していなかった。下の世代までを見渡したときに、大きな希望を見出していたのだろう。五輪代表監督を兼任し、当初は契約に含まれていなかった1999年3月のワールドユース選手権(現FIFA・U-20ワールドカップ)の指揮も執った。

 ナイジェリアを舞台にした戦いで、すべての年代通じて男子の最高位となる準優勝を達成すると、主軸を担った小野伸二や稲本潤一、高原直泰、中田浩二らを五輪代表へ“飛び級”の形で招集。中村俊輔や柳沢敦らの世代と融合させ、アジア予選を無双の状態で勝ち抜いた。

 そして、シドニー五輪の出場権を勝ち取った後の2000年から、A代表と五輪代表を融合させることで2002年へ向けた本格的なチーム作りに着手した。もっとも、その後もJFA内の逆風は収まらず、2000年5月には強化推進本部内で多数決が採られ、4対3で解任派が上回った。

 しかし、最終的な決定を委ねられた当時のJFA会長、岡野俊一郎氏(故人)がトルシエ監督の続投を支持したことで、日韓共催大会までの契約延長が決まった。ユースから五輪、五輪からA代表へと育成のルートがしっかりと敷かれていたことを、岡野会長は高く評価していた。

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