20代前半の急成長促したアテネ五輪代表での経験
20代前半だった当時の茂庭が急成長を遂げることができたのは、アテネ五輪代表での経験が大きかったという。
「アテネ五輪代表では、チーム発足当初のジュビロ磐田との練習試合で0-7の大敗を喫したり、2004年の最終予選UAEラウンドで集団下痢事件が起きたり、ホントいろんなことがありました。
啓太(鈴木)中心にミスチルの『終わりなき旅』の歌詞をホワイトボードに書き込んでいって、みんなで意見をぶつけあったけど、あのエピソードは俺自身も一番印象に残っています。あの時、ホントにチームが1つになれたなという実感が持てた」と彼はしみじみ語る。
山本昌邦監督(現日本サッカー協会技術委員会副委員長)は思い入れのあった黄金世代の小野伸二(札幌)、曽ケ端準(鹿島)、高原直泰(沖縄SV=最終的に五輪辞退)3人をオーバーエージ枠で抜擢し、鈴木啓太らを五輪本大会のメンバーから外すという大胆選考を見せたが、茂庭はそれに対する理解も口にしている。
「啓太が外れたことはしょうがないことだよね。伸二さんやタカさんがうまいのは誰が見ても分かることだし、そういう判断もあるから。
ただ、俺自身がより大きな衝撃を受けたのは、五輪代表の練習にマコさんと明神(智和=長野)が参加した時。マコさんはメチャクチャ身体能力が高いわけでもないし、明神さんもそう。じゃあ何がすごいんだろうと注目して見ていたら、技術やフィジカル、駆け引きや落ち着きとか全部がハイクオリティだった。
ハイクオリティすぎるから全てが普通に見えちゃうのかなと。それも世界と戦ってきた経験から来るものなんだと一緒にプレーして痛感させられたんです。当時の自分は五角形の1個が突き抜けている選手がすごいと思っていたけど、ホントにすごいのは総合点の高い選手。そういう人が長くサッカーできるんだなと学ばされましたね」と彼は若かりし日の衝撃を述懐する。