自分のキャリアの中で最も輝いていた時期
松井大輔(オドラオポーレ)、石川直宏(FC東京)、大久保嘉人(FC東京)ら華やかな攻撃陣が印象的な2004年アテネ五輪世代。だが、阿部勇樹(浦和)を筆頭に守備陣も30代後半に差し掛かりながらハイレベルのパフォーマンスを維持している。3年ぶりのJ1復帰を果たし、ルヴァンカップ決勝進出を果たしたセレッソ大阪のベテランDF茂庭照幸もその重要な1人である。
中学生の頃からベルマーレ平塚(現湘南)でプレーし、ユース所属ながら99年にトップ登録された彼は将来を嘱望されるDFだった。2001年ワールドユース(アルゼンチン/現U20W杯)の日本代表にも当然選ばれたが、大会直前に肉離れを発症。バックアップだった那須大亮(浦和)に後を託して帰国するという悔しい思いを味わった。
それでも、原博実監督(現Jリーグ副理事長)に才能を買われ、2002年にFC東京へ移籍してから急成長。2004年アテネ五輪アジア予選、本大会を経験するとともに、2003年10月のチュニジア戦(チュニス)では国際Aマッチデビューも飾り、田中マルクス闘莉王(京都)とともに若手世代のDF代表格と位置付けられるようになる。
2006年ドイツワールドカップは当初バックアップメンバーだったが、田中誠(解説者)のケガによって追加招集され、休暇中のハワイからアロハ姿でドイツ入り。出番はないと見られたが、初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)で坪井慶介(湘南)が負傷したことから途中出場する機会にも恵まれた。日本はこの大会で厳しい結果に終わったが、茂庭自身は「2004~2006年頃までは自分のキャリアの中で最も輝いていた時期」と言い切る。
「ドイツに行って3日間はボールを触らせてもらえなかった。『お前は走っとけ』と言われてね(苦笑)。でも後から代表に合流した戸惑いはなかった。逆にグイグイ行こうと思ってましたね。
マコさん(田中)はスタメンの可能性の高い選手だったかもしれないけど、俺が試合に絡めるほど甘くないと。何しろ一番下だったから、雰囲気だけはよくしようと思って、ホント先輩には失礼なことも言ったり、したりした(苦笑)。それで空気が和んだりすればいいやという感じでしたけどね」と当時を振り返る。