スペイン代表の活躍に乾杯したことなどない
──ユース世代のあなたは、そのスピードから“黒い矢”と称されました。“左”を走っていなかったというのは、本当ですか?
アルトゥール・マス(以下M) いや、本当だ……。中盤で動き回っていたよ。私は2~3シーズン、中盤の選手としてアマチュアフットボールでプレーした。
足がとても速く、持久力もあったから、サイドに置かれていたんだ。ときにはエクストレモ・デレチョ(フットボール用語で右ウィングの意で、一般的には極右の意)も務めたね。
──青春時代にはフットボールの選手になることと、カタルーニャを独立させることのどちらを夢見ていました?
M どちらでもなかったね。当時のカタルーニャ政府は亡命地にしか存在せず、首班になるなんてことも頭になかった。プロスポーツ選手として生計を立てることも、一度だって考えはしなかったよ。私はテニス、ペロータ、スキー、サイクリング、バレーボール、ハンドボール、バスケット、陸上競技……、あとは水泳、セーリングなども好きだった。最も取り組んでいたのはフットボールだったがね。
──あなたの家族にフットボールのファンはいましたか?
M 無論だ。サバデルの祖父はバルサ、エスパニョール、サバデルのソシオ(クラブ会員)を同時に務めていた時期があったが、どれだけフットボール好きな人だったか分かるだろう。
日曜日は食事のために彼の家へ出かけたが、その後には旧クレウ・アルタ(サバデルの元本拠地)に連れて行かれた。サバデルは当時1部に所属していたが、バルサが来ない限りは彼らを応援していたね。そして17歳のとき、祖父にバルサのソシオにしてもらったんだ。それから40年以上、彼らのソシオであり続けている。
──世代的にはヨハン・クライフがお気に入りの選手だったのでしょうか?
M イエッサー。彼は私が崇拝の対象とした偉大なる選手であり、じつにスペクタクルだった。バルサのスタイルを進化させた人物だね。私はエレガントな選手たちを好んでいる。だから、まずクライフ、その次にラウドルップ、そして今はメッシのファンだ。
──クライフのバルサ到着は、40年にわたって独裁政権に支配されていたカタルーニャにおいて、一つの転換点になったと思いますが。
M ヨハンはとても若くしてカタルーニャに到着したわけだが、自由の根付く国からやって来た。彼は成熟した民主主義、また寛容主義のあのオランダから、カタルーニャのピッチと社会に新風を送り込んだ。
クライフがカタルーニャで起きていることについて、自身の考えをこう表現したことを覚えている。「国家が欲しいなら、手にすればいい。お上品に歩いているんじゃないよ」と、迷うことなく言い放ったのさ。