天皇杯優勝を喜んだのはロッカールームを出るまで
清水(エスパルス)との決勝は、確か(この大会で)初めて先制されたんじゃないかな(註:13分に澤登正朗が得点)。でも前半終了間際(44分)に久保山(由清)が同点ゴールを決めてくれた。
僕は前半は0-1でもいいと思っていたくらいだから、ラッキーパンチみたいなゴールで「行ける!」と確信したね。心配だったのは、選手のセルフコントロール。プレッシャーは当然あっただろうし、来季の移籍先でのことを考えて「無理をしないでおこう」という誘惑もあったかもしれない。
でも、彼らは本当によく頑張ってくれた。吉田孝行のゴールが決まった時(73分)、「これは間違いない」と思ったね。
優勝が決まったときは、もちろん僕も喜んでいましたよ。でもそれは、ロッカールームを出るまでだったね。いつもだったら「2月に始動するときに、また会いましょう」っていう挨拶になるんだけど、もうこのチームで再会することはなかったからね。
そのあと新横浜駅で優勝報告会をして、全日空ホテルで祝賀パーティーもあったけれど、あまりよく覚えていない。スピーチでもあまり深い話はできなかったし、みんなと飲んでいるときも大人しくしていたね(苦笑)。やっぱりフリューゲルスが無くなることに、最後まで納得できていなかったからだと思う。
その後、僕は祖母井さんに誘われてジェフ市原の監督になった。でもファーストステージでクビになったね。15位だったけど、僕自身はそんなに悪くない思っていた。前の年は(年間順位で)16位だったわけだし、若い阿部(勇樹)をレギュラーに定着させたしね。
それから京都のコーチになったら、加茂さんが解任されて僕が次の監督になった。その年(00年)はJ2に降格したけど、次の年はJ1に復帰させたし、02年には再び天皇杯に優勝したので、京都での思い出は悪くない。
浦和でも、ホルガー・オジェックに代わってコーチから監督に昇格した(08年)。結局1シーズンでクビになったけど、3つのクラブでコーチから監督になったのは、珍しいキャリアだよね(笑)。