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Jリーグ 7年前

横浜F最後の指揮官、エンゲルスの回想「『合併』の意味を当時の僕は知らなかった』【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実 text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images

ボルシアMGで挫折した若者が日本を目指すまで

 出身は、デューレンという街です。ノルトライン=ヴェストファーレン州にあって、ケルンとかデュッセルドルフとか、あとはドルトムントやゲルゼンキルヒェンが有名だけど、デューレンはオランダとの国境に近い街。

 父親は元サッカー選手で指導者だったね。僕も同じ道を歩んだけれど、僕の娘はイングランドのQPRの女子チームで、息子はフォルトゥナ・デュッセルドルフのU-19でプレーしている。まあ、フットボール一家だよね(笑)。

 僕がサッカー少年だった1970年代は、まさにバイエルン・ミュンヘンとボルシア・メンヘングラードバッハの2強時代で、僕は幼い頃からボルシアMGの大ファンだった。

 ドイツのU-18代表に選ばれたこともあって、いくつかプロクラブから誘いがあった中でボルシアMGからもオファーをもらった。迷うことなく、憧れのクラブへの移籍を決断したね。

 ギュンター・ネッツァーはすでにレアル・マドリーに移ってしまったけど、ベルティ・フォクツ、ウリ・シュティーリケ、ヘルベルト・ヴィマー、ライナー・ボンホフ 、ユップ・ハインケス、そしてデンマーク人のアラン・シモンセン。錚々たる顔ぶれだったよね。

 そんなスター軍団の中で、18歳の若造に出番が与えられるわけがない(笑)。75年から3シーズン、ボルシアMGではまったく出場機会がなかった。その間、時間を見つけては地元で子供たちにサッカーを教えていたので、指導者の道を模索するタイミングも早かったね。

 79年からはアーヘン大学に通い始めて、フランス語と歴史とスポーツを学んだ。それからスポーツをもっと科学的に勉強したいと思って、ケルン体育大学でも学ぶことにしたんだ。その間、アマチュア選手としてプレーは続けていたけどね。

 来日のきっかけは、本当に偶然だったね。大学の掲示板に、日本でのサッカーの仕事の募集があったんだ。それを見つけて「面白い!」と思ったから、すぐに応募した。

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