2001年にはA代表候補に選出されるも…デビューは2007年にずれ込む
彼の非凡なところは、偉大な先輩2人から点を取る術を盗んだこと。「先輩はみんな面倒見はよかったですけど、いろいろアドバイスをしてくれたのは、ヒデさん(鈴木秀人=磐田コーチ)とかDFの人。FWの人が動きを教えてくれるのはあんまりなかった」と本人も言うように、中山も高原も点取屋としての秘訣をわざわざ教えてくれるはずがないから、自分から貪欲に習得するしかない。そういう環境に置かれたことで、若かりし日の前田は飛躍のチャンスを得た。
ただ、高い壁があった分、表舞台に躍り出るのは遅れた。フィリップ・トルシエ監督が率いていた2001年には20歳にして日本代表候補に選ばれたものの、初キャップはイビチャ・オシム監督時代の2007年10月のエジプト戦(大阪)までずれ込んだ。
老将の急病によって後を引き継いだ岡田武史監督(FC今治代表)からも高さ、足元の技術、守備意識を認められ、しばしば招集を受けた。2009年9月のオランダ遠征の際も、当時のエース・中村俊輔(磐田)が「前田ちゃんはFWの中で一番体張れる。それでうまいし、走れる」と絶賛したが、2010年南アフリカワールドカップは予備登録にとどまった。
2009・2010年と2年連続Jリーグ得点王に輝き、岡田監督の後に代表指揮官に就任したアルベルト・ザッケローニ監督体制では不動の1トップに定着するも、2011シーズン末に踏み出そうとしたトライしたイングランド・ウェストハム移籍は叶わなかった。
【次ページ】「海外にも行こうとしたけど、気づくのが遅かった」