もともとは技術に長けたMF。プロ入り当初はポジションが定まらず
99年ナイジェリア大会に続き、U-20日本代表の躍進が期待された2001年アルゼンチン大会。オーストラリア、アンゴラ、チェコと同組に入った日本は初戦、第2戦を立て続けに落とし、早々とグループリーグ敗退の憂き目に遭った。
3戦目のチェコ戦ではGKペトロ・チェフ(アーセナル)の守るゴールに3得点を叩き込み、潜在能力の高さを示したが、全ては焼け石に水。攻撃陣の中核だった前田遼一は1トップ、あるいは2列目の一角で全試合に先発出場したが、ゴールを1つも奪えないまま帰国の途に着くことになった……。
16年前の前田は、東京・暁星高校からジュビロ磐田入りして2年目の若手だった。中山雅史(沼津、解説者)、藤田俊哉(リーズ強化担当)、名波浩(磐田監督)ら日本屈指のタレントを揃える磐田は2002年にJリーグ完全制覇(当時は2ステージ制)を達成するなど、まさに黄金期の真っ只中。10代の若手にそうそう出番が巡ってこないのも当然のことだった。
彼はもともとドリブルを得意とするMFであり、プロ入り後はトップ下やFWなどポジションが固まらなかったこともあって出場機会を増やせず、定位置を確保したのは2003年から。すでに高原が去り、中山が恥骨結合炎で欠場したシーズンである。
「ジュビロの新人時代にいろんなことを経験できたのはよかったですね。FW以外をやらせてもらったことも、後々に生きたかなと感じます。
そして一番大きかったのは、やっぱり中山さん、タカさんの2人を近くで見れたこと。彼らはホントに間違いなく日本を代表するストライカーですし、長く中盤でやってきた自分には『確固たるFW像』ってものがなかった。
そういう中で一番最初に見たのが2人だったんで、すごく影響を受けました。中山さんはボールのないところの動き出し、タカさんはシュートのバリエーション。足元が特にうまかったんで、そういうプレーが非常に参考になりました」と前田は述懐する。