3バックか、4バックかの論争を経て最終予選へ
自国開催となった2002年日韓ワールドカップは予選免除だったため、日本代表が2006年ドイツ大会のアジア最終予選に挑むのは97年以来、8年ぶりのことだった。
この頃のアジア予選は現在よりも序列分けが明確で、日本や韓国のようなAFC(アジアサッカー連盟)上位25か国は2次予選から参戦すればよかった。2次予選は4ヶ国ずつ8グループに分かれて戦い、各組1位が最終予選へ進出。
日本は2004年2~11月にかけて行われた同予選でミラン・マチャラ監督率いるオマーンと同組になり、大いに苦しめられたが、初戦・オマーン戦(埼玉)で久保竜彦(解説者)が後半ロスタイムのミラクル決勝弾をゲット。苦戦を強いられた3月の敵地・シンガポール戦で高原直泰(沖縄SV)、ベテラン・藤田俊哉(リーズ強化担当)らがゴールを決めるなど、試合毎にヒーローが生まれて、順当に最終予選行きを決めた。
2005年2月にスタートした最終予選は北朝鮮、イラン、バーレーンと同組に入った。このうち上位2位が本大会切符を手にする。5チームで2位以内を争う現行形式よりやや難易度は低かった印象だ。それでも、簡単に勝てないのが最終予選。2月の初戦・北朝鮮戦(埼玉)から日本はいきなり追い込まれる形となった。
2次予選初戦・オマーン戦で中村俊輔(磐田)、柳沢敦(鹿島コーチ)ら体調不良の欧州組を強行先発させて失敗した教訓もあり、ジーコはこの試合では帰国したばかり中村、高原の両欧州組を控えに回してゲームに入った。
基本布陣は3-5-2。2002年10月にジーコジャパンが発足した当初は中田英寿、中村、小野伸二、稲本潤一(ともに札幌)の「黄金の中盤」を軸に据える4-4-2をベースにしていたが、2004年春の中田のグロインペイン発症による長期離脱、同年夏の2004年アジアカップ(中国)連覇などを機に3-5-2へシフト。そのまま最終予選に突入していた。