当初セントラル開催だったアジア予選。突然の変更でJOMOカップが…
98年フランス大会に初参戦して以来、5回連続でW杯に出場している日本代表。「もはやW杯出場は当たり前」と考えるサッカーファンも少なくない。だからこそ、今回の2018年ロシア大会の最終予選で苦戦を強いられる日本代表の戦いぶりに苛立ちを覚えるのだろう。
とはいえ、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)で日本勢が10年近くもタイトルから遠ざかっている通り、アジア諸国の成長は目覚ましいものがある。中東勢の躍進はもちろんのこと、格下のはずだった中国やタイも外国人指導者や選手の招聘によって、着実なレベルアップを遂げている。簡単にW杯に出られるという認識を根底から改めるべき時期に来ているのは間違いない。
そこで今、我々が思い出すべきなのが、苦しみ抜いて本大会切符を手にした過去の最終予選である。とりわけ、初出場を果たした98年フランス大会の最終予選は、ホーム・日韓戦の逆転負け、加茂周(解説者)監督の解任と岡田武史(FC今治)監督の電撃昇格、自力2位の消滅、イランとの第3代表決定戦(ジョホールバルの歓喜)……と、数々の紆余曲折の末に出場権をつかむという奇跡的なものだった。原点回帰という意味で、20年前の壮絶な3ヶ月間を改めて振り返ってみる。
フランス大会の最終予選が始まったのは97年9月7日。東京・国立競技場での初戦はウズベキスタンが相手だった。当初、この予選は10月にアジアの一都市でセントラル開催されるはずだったのだが、7月にアジアサッカー連盟(AFC)から「ホーム&アウェイ方式に変更する」といきなり通達があった。
アジアの出場枠は3・5。5ヶ国ずつ2グループに分かれて8試合を行い、各組1位が本大会に出場。同2位はプレーオフで勝てば切符を獲得し、敗者はオセアニアとのプレーオフ(対オーストラリア)に回るという難易度の高さだった(この時のアジアの出場枠は3.5)。
しかも、当時は現在のように国際Aマッチデーに試合をするのではなく、3ヶ月間にリーグ戦を中断して最終予選を行うという異例のスケジュール設定。9月に強化期間を設ける予定だった日本は急な予定変更に慌て、8月のJリーグ外国人選抜対Jリーグ日本人選抜のゲーム「JOMOカップ」を直前テストマッチにしたが、0-0と芳しい結果は得られなかった。